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吹上観音

Wako_fukiage4〇吹上観音堂・東明禅寺
 和光市白子3-14-1

 吹上観音は、吹上(地名)の東明禅寺の中に奉られる観音様が親しみと信仰により、いつしか寺の名前を飛ばし・吹上にある観音様で「吹上観音」と呼ばれるようになりました。
 吹上観音は、天平の時代に行基菩薩が巡行中に観音像を彫刻し、赤池の地に一宇を建てたとされています。 1646年当山境内に完成した観音堂に移設され、吹上観音と呼ばれるようになりました。 1776年に同の焼失に遭いましたが、右手と左足の損傷以外奇跡的に御姿は助かり、1781年観音堂が再建されました。 足の病を治し火の難を防ぐ、と信仰を集めています。

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Fukiagekannon1c吹上観音の道具市

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Fukiage_kanmeic☆観命法尼
 安永五年十二月十日夜諸堂消失、火災跡の灰の中から光明が輝いたので、伊三郎なる者が鎌で霊像を掘り出した。 その後仮堂に安置されるも、観命法尼自ら誓願を起こし・女神通力を得て此堂を経営し・日ならずして堂宇竣功し、天命元年十一月二十六日本堂再建。 観命閑居自ら肖像を彫り、文政六年二月十五日自ら火を縦ちて焼亡した。


☆観音ばあさん
 観音経講は、文政六年二月十五日に観命ばあさんが亡くなり、その人を偲んで翌年の命日から始まったと言われている講である。
 観命ばあさんとは、江戸時代に吹上観音の本堂が焼けてしまったときにその本堂を再建したといわれているおばあさんである。 このおばあさんは・観命尼と言われとても信心深い女性で、本堂が焼失した跡でただ独り小さい家を建て・観音様を信心していた。 ある晩夢に観音様が立って、お堂を建ててほしいとのお告げを受けた。 そこで観命尼は、一生懸命に寄付を募ったり・木材を運んだりして再建に尽くし、近くの人々もその意気に感じて・我先にと協力したという。 そして立派な本堂を再建したものが現在の本堂である。 講は観命尼が亡くなった後、その子孫が講元となって毎年命日近くに行われていたが今は行われていない。

横線540透明

☆びんぼう和尚
 江戸時代、人々から「びんぼう和尚」と呼ばれる、露身という名の僧侶がいました。 露身は寺に定住しないで、長年托鉢をしながら修行をしていたので、「びんぼう和尚」の呼び名がついたのです。
 ある日、露身は誓願を立てました。 それは東明寺の観音様に鐘を奉納するために、浅草寺の観音様と東明寺の観音様の間を百日間、乞食して往復することでした。 それは雨の日も風邪の日も休むことなく続けられたのですが、並大抵のことではなかったのです。 露身は川越街道を托鉢しながら、自らには粗食の粥を貸して、施された銭はもちろん・施しの米は貯めて銭に換え・貯えをして、ようやく半鐘を鋳造することができたのです。
 当時は、浅草の観音様をお参りして、吹上の観音様をお参りすることが習いでもありました。 それをしないのは「片参り」と言われたほど、当時の人々にとって、東明寺の観音様の信仰がどれだけ扱ったかがよくわかります。


☆新羅三郎義光が笙を吹いたので吹上、座っていたので新座、とか…

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