旧制浦和中学記念碑
明治二十八年鹿島台と呼ばれた地の一画に設立された埼玉県第一尋常中学校は、学校制度の変遷により埼玉県第一中学校に改称され、明治三十四年には浦和中学校となって通称「浦中」と呼ばれるようになりました。 昭和12年現在の校地に移転し、昭和23年に浦和高等学校となります。 尋常中学校当時に定められた校訓「尚文昌武」の精神は今も受け継がれ、明治三十九年に制定された校歌の一節「校舎の礎動きなき我が武蔵野の鹿島台」もなお歌い継がれています。
鹿島台の街並みと浦中は、昭和2年から「少年倶楽部」に連載された小説「あゝ玉杯に花うけて(佐藤紅緑著)」の舞台となりました。
大正時代
☆受験列車
大正十一年四月開校に備え、二月五日入学願書締切りも・各地から入学志願者多数、定員二百人に対し受験生二千人以上。 役場では公有建物を開放するも宿が足りず、そのため三月十七日より一週間 上野~浦和~大宮に臨時列車を走らせることとなった。
あゝ玉杯に花うけて 昭和4年(1929)
監督:小沢得二 原作:佐藤紅緑 脚本:小沢得二 撮影:鈴木博
出演;池田辰苦、針川浪退助、山本冬郷ほか
昭和2年(1927)5月から同3年4月まで雑誌『少年倶楽部』に佐藤紅緑の少年小説「あゝ玉杯に花うけて」が連載され、立身出世を願う今年たちの圧倒的な支持を得ることになりました。
この小説は、浦和中学校(現・県立浦和高等学校)を始め浦和町のきまぎまな場所が舞台になっています。 家庭の事情で中学校に進学できなかった青木千三は、豆腐売りとして家計を助けながら苦しい生活を送っていました。 しかし、千三は悪童・坂井巌の数々のいじめにも耐えながら、浦和中学校に通う親友柳光-のはげましと友情によりー念発起して、一高(現・東京大学)進学を目指して黙々塾に通います。 浦和中学校と黙々塾の野球の試合では、黙々塾は手作りのバットやグローブにももかかわら、勝利を収めます。 その後、千三は一高に入学が決まり、声高らかに一高寮歌を唄します。
この小説の映画化に際し、浦和町の各所で撮影が行われ、浦和中学校の生徒たちもエキストラとしで参加しました。 浦和中学校の桜が咲き誇る様芋、校庭での教練のシーン、別所沼にあった野球場で浦和中学校の野球部員と俳優たちの試合の様子が撮影されました。 また、黙々熟の庭として浦和区本太の農家でも撮影が行われています。
完成した映画は浦和劇場で上映され、浦和中学校全生徒が観覧したと言われています。
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