八雲町 メモ
○八雲町
明治十一年六月試験場条例を規範とし「徳川家開墾試験場」を開いた。
明治政府による中央集権国家体制が進むなか、明治2年の版籍奉還、同4年の廃藩置県によって、旧藩士たちは士族としての特権は奪われ、その家禄も削減された。 同6年からの秩禄処分で家禄が金禄に改められ、同9年には金禄公債証書が発行されるが、その公債を元手に商売を始めて失敗する者が相次ぎ、士族の生活は苦しくなっていった。 そこで、徳川慶勝は、明治維新後に収入が激減した旧藩士たちの救済に力を注いだ。 名古屋県では、明治3年から同4年にかけて旧藩士の帰農を奨励する「帰田法」を実施し、同14年には織工場の3年間貸与を県に要請して、「徳川織工場」を経営し、養蚕場も開設した。 慶勝はこのような施策と連動させながら、北海道開拓に新たな士族授産の道を探ることにした。
明治10年7月、慶勝は旧藩士吉田知行・角田弘業・片桐助件の3名を北海道に派遣し、移住・開墾に適した土地を調査させ、胆振国山越郡山越内村遊楽部を適地とした。 この他は北海道渡島半島の北部に位置する。 同11年6月に、移住・開墾の資金は尾張徳川家が賄うことを条件に開拓使長官黒田清隆から同地150方坪の無償払い下げの認可を受けた。 開拓地は「徳川家開墾試験場」と名付けられ、同年7月より入植が開始された。 このとき「徳川家開墾試験場条例」が制定された。 この条例は、移住の目的、尾張徳川家からの貸与金の使途とその返済方法、移住民の管理・統制等を規定し、将来は移住民が自立して、産業を育成、発展させていくことを最終目的とした。 第l回の移住は、家族15戸・単身者10名であった。 開拓は徐々に進められ、同14年に遊楽部は山越内村から分離独立し、八雲村となった。 「八雲」は慶勝の命名である。 この名は、尾張とゆかりの深い熱田神宮に祀られている須佐之男命が詠んだといわれる、「八雲たつ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」から引用された。 この和歌は新妻を迎えて新たな生活に臨む気持ちが詠われており、「八雲」という名には、豊かで平和な新しい理想郷め建設を目指していた慶勝の思いが込められていた。 慶勝の開拓事業は高く評価され、同16年7月に藍綬褒章が授与された。
八雲での開拓が進むなか、慶勝は明治16年8月1日に死去したが、移住民たちは西洋農法を習得し、緑と水の豊かな立地を生かして、農業・酪農業・林業・漁業などの発展に尽力した。 移住民たちは尾張徳川家の神霊とともに熱田神宮の神符を板蔵に祀り、故郷尾張との精神的な結びつきの拠り所としていた。 移住民たちの墓は八雲の街が一望できる常丹ケ丘にあるが、その墓石は尾張の方向に向かって建てられている。
慶勝の死後、明治19年に八雲神社が創立され、翌年には全一の熱田神宮となった。 同26年に移住民が慶勝を「守護神」として祀ることを願い出ると、御霊代が八雲神社に鎮座した。 さらに昭和9年5月には、「徳川慶勝命」を合祀しており、現在も毎年8月1日の命日には八雲神社において祭礼が執り行われている。
士族の商法
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