館林伝説
○城沼に住む竜が女に身を変え、七日間上人の説教を聴いた後飛び込んだのが善導寺「竜の井」。 それ以降、井戸使用禁止。
○須賀沼の南沼の主は大蛇・北沼の主は大亀、宝光寺・とみ坊主が魚取りをしたに怒り懲らしめてからは魚取りをする者はいなくなった。
○昔から洪水に見舞われた大沼を埋め立てたさい、沼の主夫婦の二匹のウナギを祀ったのが「須賀弁天祠」。
○赤岩にあった沼の主は大蛇、村の娘が次々と消えた。 そこで、藤原長良の御殿女中「おさよ殿」が弓で退治し、頭を瀬戸井・切り刻んだ胴体を舞木などに祀り長良神社十八社となった。
○赤生田・永明寺の番僧・順体坊は天狗だったらしい。
○赤堀村を開拓したのが間下久五郎、京都の公卿の息子といわれる。(久五郎神社)
○足原の橋を渡ろうとしたら大蛇がいたので、橋を避けて浅瀬を渡ったら川中から大判・小判の包みを拾ったのが「蛇の長者」。
○足利義兼が傷ついた鶉を手にしたのが「鶉の郷」。 義兼の枕元にに現れた鶉を飼っていたのが、法界寺奥の院赤御堂(樺崎八幡宮)の社宝の鶉籠。
○大雨の度にでが流されるので、自ら人柱となったのが「長良の人柱」。 その娘が詠んだのが「雉も鳴かずば射られまい。 口ゆえの長良の人柱、わが父は」。
○大洪水で崩れた一峰山が造った沼、「蛇崩れの岩」とよばれる丸穴から水が流れ出ており、沼は竜宮城へ通じ貸椀伝説があった。(穴から竜燈が上がったといわれる)
○大袋城主赤井照光が助けた子キツネの親の白キツネが縄張りをしたのが館林城。 時は天文元年(1532年)、鬼門に尾曳稲荷・引きはじめが初曳舟稲荷・引きおわりが夜明け稲荷。
○大島町観音堂、御開帳のとき以外は扉を開けてはいけない。(本寺は明善寺・如意輪観音ともいわれる)
○大暴風雨で地蔵堂が壊れたので木彫りの本尊を移そうとしたら、石像に変わっていたのが「トウミギ地蔵」。(トウミギは玉蜀黍のこと) 「馬場にはすぎたるものが三つある きゃらま地蔵に 源太が胴乱 山木屋のみの」と謡われた。
○大名左遷の地・棚倉の藩主となった井上正春、館林に移った後も棚倉に尽くした。 ので狸塚「井河大明神」、「井上大明神」とするところを領主に遠慮したといわれる。
○彫り物の鶯が鳴いたのが、遍照寺・中雀門かえるまた。 左甚五郎作といわれたが、今はない。
○天正十八年石田三成らが館林城を攻めたおり、堀の葦が兵に姿を変えて迎戦した。 その後、堀に生える葦は片葉となったといわれる。
○天平宝字八年、勝道上人が八谷郷にて草庵を結んだ。 弘仁十二年、八谷郷を訪れた弘法大師が橋のない渡良瀬川を渡ろうとすると無数の海老が現れ、その背中を渡って対岸に着いたのでその地を「海老瀬」。 役目を終えた海老は岩となった。 そこで弘法大師は一詠「海老の背を 渡ればここに 八谷郷 その水底に しるし残れる」。(鰕瀬山西光院・一峰神社)
○楠木正成の首級を葬ったといわれるのが館林羽附「楠木神社」。
○日照り続きの中野村、三つの獅子頭を先頭に雨乞いすると雷電神社は黒雲に包まれ大雨となった。 あまりの豪雨に獅子頭は流され、下郷木戸の矢場川で見つかったが中野村に帰ることはなかったのが「木戸の獅子舞」
○馬場山の皇太神宮・雷電神社に住みついた乞食の雷五郎一家が寄進したのが唐獅子。
○廃寺となった興蔵寺の老杉を伐ろうとしたら、梢から火を吹き出したのが愛宕神社の巨杉。(現在は無い)
○姫が足軽と恋いに落ち子を宿し駆け落ちしたが、城の追手に捕まったのが足利・万福寺。 助けられなかった二人を祭ったのが腹が大きい弁財天。
○法泉寺の黄金亀、大水で流されてしまった。 年月が経ち、板倉早沼に石亀となって現れたのが板倉・安楽寺(安勝寺)、大水のときに泳ぎだしたといわれる。
○茂林寺のムジナが僧・守鶴に身を変え、十日念仏を果たした「館林山浄徳院応声寺」。 守鶴が書き残した「南無阿弥陀物」が、ムジナの書いた六字の名号と伝えられる。
○毛呂一族の墓といわれるのが「山王山古墳」、掘ったり・崩したりすると災いがある。(善長寺本堂裏の墳丘ともいわれる)
○宥円の怨念でネジ曲げられたのが和尚の墓石、遍照寺「宥円のネジリ石」。
○竜宮城に忍び込んだ姫(長者の一人娘)が念願の玉を手中にし、追手に追われながら乳の下に隠して秋妻の里に逃げ帰ったのが「玉取姫物語」。 姫が竜宮門で転んだので、この地では門禁止。
○旅人宿「丸八」で働くことになった女に化けた狐親子、ある時旅の若い武士に親娘とも惚れ込み親子喧嘩となった。 死んだのはすすきが原の古狐と狸、二匹を弔ったのが横根宿の狸心様(こんしん)と狸塚。
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