河口鍋匠
○川口市の鋳物
室町時代末には、すでに鋳物工場があった。 江戸時代になると、鍋・釜・鉄瓶など日用品銑鉄鋳物中心となった。 天保年間には鍋屋平五郎など鍋商人が活躍した。
明治時代になると株組織体制が崩れ、鋳物工場が一気に増えた。 薬研屋・永瀬庄吉が主導をとったといわれる。
1961年には636工場・従業員17068人に達したが、1965年をピークに衰退がはじまった。
学習院鉄門(明治十年)
宮内庁出入りの日本橋指物師が木型を造り、川口鋳物は二代目永瀬庄吉・三代目永瀬庄吉(永瀬次郎吉)・永瀬竜吉らが製造したといわれる。
吉原鉄門(明治十四年)
川口鋳物・永瀬庄吉が、鋳鉄鉄門・吉原大門を製作した。
○永瀬鉄工所製作
川口善光寺大楼鐘(明治以前・現存せず)、学習院鉄門(明治十年)、川口神社鉄華表・鋳物製鳥居(明治十一年製造も明治四十四年焼失)、太田大光院の手洗鉢(明治十三年)、吉原大門(明治十一年製造も明治四十四年焼失)。 成田新勝寺釈迦堂水盤(明治十八年・レプリカ)、待乳山聖天院石柱銅燈(明治十九年現存せず)、旧二重橋欄干及び外壁鉄柵(明治二十一年・現存せず)、日比谷公園鉄柵(明治三十六年・現存せず)、旧赤坂離宮表門(明治四十二年)、など
※小菅銭座(1860~1867)で鋳物製貨幣を製作したともいわれる。
☆総同盟埼玉支部連合会
大正十五年三月東京鐵鋼川口支部、永瀬鋳工場・増す鐘工場・徳永・野崎・小野沢・田中・永福・富岡・小池・名古屋・浜田、などが組合加盟。
野崎工場争議・田中工場争議、1925年川口支部分裂、1927年関口製作所争議、1928年伊藤工場(伊藤仙太郎)争議、1930年鐘争議、1931年山崎鉄工所争議。
※川口駅から関口製作所(関口倉吉:評判は悪かったらしい)まで、他人の土地を踏まずに行けた、といわれる。
※伊藤仙太郎・伊藤宣六、センロクカマド。
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