新井イッケ メモ
☆新井イッケ 参考文献
「秩父之精神・新井源藏」
「定峰における新興地主の成長とその地域的背景」
その他に、「定峰の小字地名と屋号」・「戦国期定峰における村落社会の変容」・「秩父の今昔」・「定峰誌」、など。
【 だれも知らない新井イッケのはなし 】
○屋号「ナツウチ」は源蔵娘の名前ナツに由来「ナツの家(内)」の意。(当時の名前はカタカナだったので「ナツウチ」もカタカナ表記になっている)
○一代目源蔵は大工、二代目源蔵は大尽
※大工新井源蔵は組織名、その後に弟子の名前が入る
※大工新井源助も組織名(上野国)
○現建物は妙圓寺だった
○【本】の紋は本化日蓮宗
○寺は山寺、坂本山が寺敷地だった
○寺隣地はコヤツマ新井家だった
○本堂は山の上に南向きにあった
○門前には石碑や祠などがあった
○山門西側には参道(階段)があっただろう
○北側にも参道があった
○川の東側を南北に走る旧道は参拝道だった
○参道(階段)は新道路ができて塞がれた(山も削られた)
○現建物には棟札・墨書があるだろう
※妙圓寺は、十六世紀後半建立・天命三年に栃谷に移転し再建立
※「いろ」の坂東九番慈光寺説は年代が一致しない
○元々、坂東新井家と関係があった
○天命六年定峰村に無住寺の記あり→現建物
○坂東新井家から空屋(空寺)を教えられ、引っ越してきた(1790年頃)
○源助は空寺坊守(番人)として住み、農業をはじめた(あるいは大工?)
○坂東新井家(新井省吾)との家系関係は解らん…
○一代目源蔵一家は質素だった
○源蔵は天保七年秋に病死した(1836年)
○源蔵妻は安政二年冬に病死した(1855年)
○源蔵妻の名は解らん…
○源蔵の娘(二代目源蔵の姉)については知らない…
○二代目源蔵は文政三年二月一日生(1820年)
○源蔵は幼くして妙圓寺で学んだ
○源蔵はとにかく勤勉勤労実直だった
○源蔵一代で財を築いた
○源蔵は「定峰の源蔵大尽」とよばれた
○源蔵は村民に信頼されていた
○入会山訴訟に百姓代新井源蔵(嘉永四年・1851年)
○源蔵は村民に農桑資金を融通し、後には金融業となった
○源蔵は妙圓寺住職と親しかった
○源蔵は寺建物を借りていた
○源蔵は蔵に【本】の紋を残した
○源蔵は金の使い方もきれいだった
○源蔵は秩父の寺を廻り寄進した(宝登山神社など)
○源蔵は公共事業などにも投資した(上武鉄道など)
○源蔵は巡礼人や旅人に宿を無償提供した(老幼盲目者に)
○源蔵は三十五歳まで結婚を断っていた
○源蔵の娘は若くして痘(疱瘡)で病死した(万延年間・1860年頃)
○御霊様上り口の「姫塚」は源蔵娘(源重郎妹)の碑
○姫塚の墓石は姫だるまを象った(姫+疱瘡除け達磨)
○晩年は左足間接が悪く歩行困難だった
○源蔵も、さすがに名主小久保家を抜いて戸長にはなれなかった
※痘(疱瘡)は伝染病なので、人目を避けて墓を建てた(家が見える場所)
※毎年五月第二日曜は「志乃ゝめ講」で宝登山神社参拝だった
※小久保家は「定峰大尽」とよばれた
○源重郎は源十郎ともよばれていた
○源重郎は明治三十一年十一月二十一日事故死42才(1898年・山関係か?)
○源重郎の娘二人については知らん…
※源重郎の死因は、新聞記事を探せば解るかもしれない
○内田雄助は明治五年八月二十八日生(1871年)
○内田雄助は尾田蒔村寺尾・内田長次郎の二男
○内田雄助は26歳で養子(後夫)になった
○雄助は31歳で校長になった
○雄助は病気で休職したが、34歳で復職した、後に退職
○林材運搬業新井源亮・新権者新井雄助の記あり(明治四十三年・1910年)
○高篠村会議員・高篠村信用組合長など
○夏内新宅は内田雄助家から始まった
※雄助については教員異動記録が全部残っている
※蒔田村内田家は鉢形衆秩父郡落居に始まると伝えられる
○源重郎と「いろ」の間に産まれたのが源亮
○雄助と「いろ」の間に産まれたのが正義、戸籍上は源亮の弟
○正義は吉田茂と親交があった(同盟通信社時代)
○山階宮疎開は正義の介入
○山階宮疎開に際し、門前に庭園(池や橋など)を造った
○欄間彫刻は塗り直した
○山階宮定峰別邸となった
○疎開したのは山階宮家の下位だった
○家が買収されなかったのは村長家だったから(階宮家下位だからか?)
※山階宮武彦王など山階宮家上位は寄居別邸に疎開した
※寄居別邸は強制買収され、戦後に買い戻された
○戦前は坂道の両側に新井イッケが集まっていた
○太田地区に多くの小作地を持っていたが、把握できていない
○戦前の新井家は秩父最大級の地主だった
○新井家の農地解放面積は秩父最大だった
○新井家では昭和二十二年頃使用人「島」が山の上で炭焼きをしていた
○昭和三十三年旭屋商店(炭雑貨・新井省吾)に公衆電話設置
○昭和三十四年に水道ができるまでは井戸だった(十七区)
○新井省吾宅前は縄文遺跡、今も縄文土器が埋まってる
○坂東新井家(新井省吾)の祖先は七兵衛(大野原村地主・天明年間)
○御霊様はコヤツマ新井家(佐助、忠兵衛)の屋敷神だった(元禄年間・1700年頃)
○コヤツマ新井家は文政年間に破綻消滅(1810年頃)、その後を新井一族が引き継いだ
○コヤは「根古屋」が源。 北条家臣の坂本氏が、定峰に館(居城)を築いた。
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