ナツウチ伝承
【 ナツウチ伝承 】
1.新井源助
今から約200年前(文化文政年間)の白石村、山谷の間に村民四十一戸が高低数カ所に点在していました。 畑は少なく萱野が繁り、村人は炭焼を業とし、春には山でウドや蕨を採り・夏には槻川でヤモメやハヤを捕り暮らしていました。
また、山で楮皮を採り坂本村の二七市に売りに行きましたが、江戸時代後半細川紙が伝来され廉価な和紙が作られるようになり、荷役の便が良い東秩父村や小川町へ和紙の生産・取引拠点が移り、槻川上流での紙漉は衰退しました。
この白石村は夏内に住む源助夫婦、生活は楽ではありませんでした。 文化年間(1800年頃)のある日、峠を越えて定峰村坂東にある親戚の新井家を訪ねたおり、「隣の家屋が空いているから、引っ越してきたらどうか」と言われ、転居することにしました。
源助夫婦が移り住んだのは16世紀後半に建立された妙圓寺、天明三年(1783年)栃谷に法昌山妙圓寺として移転・再建立したため無住寺となっていました。 源助は空寺坊守(番人)として住み、農業をはじめましたが質素な生活が続きました。
2.新井源蔵
当時の定峰村には、百姓七十九世帯(183人)が暮らしていました。 定峰村の産業は、農業の他に・炭焼・養蚕・絹織物・煙草・干柿などでした。
定峰村に移り住んだ源助夫婦に、文化年間(1815年頃)に女の子(源蔵の姉)が生まれ、文政三年二月一日(1820年)源蔵が生まれました。 源蔵は幼年期を過ぎると、妙圓寺の寺子屋へ勉学に通いました。 源蔵はこの時すでに大志をいだき、日常の言動には他人に優るものがありました。 妙圓寺第十三代住職(妙教院日宣上人)も源蔵の将来に嘱望し、熱心に指導訓育しました。
源蔵曰く、「我家不幸・家政振るわず辛うじて収支相償うのみ、願わくはこの状態を挽回し・勤検力行を興し、父母長上を養い以て之に十分なる慰安を興し、子一代の間に数十萬の財産を造成し、小は以て一心一家の為・大は聊か以て社会に貢献する所あらん」
天保六年一月十五日(1835年)源蔵の元服祝いの日に、妙圓寺住職は「萬業排して其の志望を大成せよ、然りとも難も前途遠く彼岸遙かなり、幸に自重せよ」と教え諭し「勤倹」の二字を書して興えました。
天保七年(1836年)秋に源蔵の父源助は病死しましたが、源蔵は母と姉と共に一意専心農事に身を委ねました。 朝は星を仰ぎ見て家を出て・夕は月影を踏みながら家に帰り、荒無しの地を拓し・開墾の業を起こし、造林の計画を立て、収穫した米殻薪炭原料は自家用を残して悉く売却し資金を貯めました。 この資金を元に絹を製造販売することで家運が発展し、貯まった資金を農桑資金として村民に融通することにより殖産興業の一助となりました。
こうして村民に信頼された源蔵は、嘉永四年(1851年)百姓代新井源蔵として忍藩に入会山訴訟を起こし、遂には勝訴しました。 本来なら名主が訴訟を起こすのですが、源蔵の方が村民に信頼されていたといわれています。
源蔵は30歳も過ぎ良縁の申込みもありましたが悉く断り続け、 安政二年(1855年)35歳でワカと結婚しました。 この年の冬、母親も病で亡くなりました。 安政四年(1857年)には長男源十郎が生まれ、万延年間(1860年頃)には長女が生まれました。 しかし長女は当時流行っていた疱瘡に罹り幼くして亡くなりました。 悲しんだ源蔵は、毎朝拝む御霊社の入口に姫塚を造り埋葬し、姫だるま(姫+疱瘡除け達磨)を形取り墓石としました。
内助の力を得て縦横に奮闘努力した源蔵は、一代で財を築き「定峰の源蔵大尽」とよばれるようになりました。 源蔵は、副戸長そして定峰村地主総代にもなりました。 しかし源蔵でも、さすがに名主小久保家を抜いて戸長にはなれなかったようです。
しかしながら、慶応三年(1867年)妻ワカが亡くなりました。 このころになると源蔵は勤検力行を励行するだけでなく、人に向て勤倹の美風と力行の必要を説き・窮行実践身を以て範を示すようになりました。 毎年五月第二日曜の「志乃ゝめ講」では宝登山神社に参拝し寄進をし、また秩父の寺々を廻り寄進を続けました。 公共事業などにも快く投資し、秩父セメントの株式を取得し・引き受け手のなかった上武鉄道(後の秩父鉄道)の株五十株も受け入れました。 見かけた秩父霊場巡礼人や旅人が老幼盲目者だとわかると、自家に泊め・翌朝には草履銭を渡して見送りました。
源蔵は妙圓寺に大変世話になったので、蔵に[本]の紋を残しました。 その結果、蔵には「本」と「源」の二つの紋が掲げられることとなりました。
3.新井源重郎(新井源十郎)
村民を相手に金融業をはじめた新井家、借金の肩代わりを通じて自己所有地を広げ、明治十年代までにかなりの土地を集積しました。 明治三十二年(1899年)には、定峰最大の地主若林家も新井家から約550円(現在の約1000万円)の貸与を受けました。
源重郎の代には造林事業にも進出しましたが、明治三十一年十一月二十一日(1898年)突然にも源十郎42才が事故で亡くなりました。 源重郎と妻「いろ」の間には一男二女の子供がいましたが、長男源克は二歳でした。 七十歳を過ぎた源蔵は左足間接が悪く歩行困難となり、家業を継がせるにも源克は二歳、そこで高篠村内田雄助を養子として迎え源克の親権者としました。
新井源蔵、明治四十二年六月十五日(1909年)九十歳にて長逝しました。
4,新井雄助(内田雄助)
内田雄助は明治五年八月二十八日(1872年)、尾田蒔村寺尾・内田長次郎の二男に生まれました。 明治三十一年(1898年)内田雄助は26歳で養子(後夫)になり、明治三十八年(1905年)には妻「いろ」の間に正義が生まれました。 戸籍上、正義は源亮の弟になります。
雄助は、明治三十三年(1900年)高篠村立尋常高等小学校教員・明治三十六年(1903年)高篠村高篠尋常高等小学校校長になりましたが、病気で休職しました。 健康が回復し明治三十九年(1906年)に復職しましたが、その後教員を退職しました。 明治四十五年(1812年)には高篠村信用購買組合長となり、その後村会議員にもなりました。
こうして所有地を広げた新井家、戦前の新井家は秩父最大級の地主でした。 新井家は定峰よりもむしろ、栃谷・山田・黒谷・大野原などに多くの小作地を所有していました。 また、昭和二十二年の農地改革では、新井家の農地解放面積は秩父最大だったといわれています。
新井雄助、昭和十五年十一月二十三日永逝しました。
☆コヤツマまとめ
十六世紀後半・戦国時代に甲州より定峰村に進出、妙圓寺を勧請して健立。
文政年間コヤツマ本家(新井忠兵衛)が破産し、新井イッケの構成が変わった。
天明年間妙圓寺がコヤツマを離れ栃谷に再建立、寺建物にコヤツマ分家源蔵家族が移り住んだ。
源蔵は、天保期以降百姓代につき経済的な地位を上げ、明治期には定峰の村民に対する金貸業で急激な成長を遂げた。
源蔵がナツウチを名乗るようになった。
※源蔵は妙圓寺の寺子屋に通ったことから、それなりに経済力があり・教育熱心であった。
※「ナツウチ」は源蔵娘の名前ナツに由来「ナツの家(内)」の意。
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