秋葉山古墳群
○第一号墳(墳長59m・前方部長26m・後円部径33m)
1999年の発掘調査により、整った形の前方後円墳であることが確認されました。 後円部の大きさは第二号墳とほぼ同じですが、前方部が長くなっています。 前方部の南側には古墳を区画する溝がみつかっています。 西側のくびれ部からは小型で底の丸い柑とよばれる土器と、鉄製の鏃が出土しました。 出土した土器から、第一号墳は四世紀代に造られたものとみられます。
○第二号墳(墳長50.5m・前方部長18.9m・後円部径33m)
2000年の発掘調査で、後円部に対して前方部の短い前方後円墳であることが分かりました。 くびれ部を中心に、全国的に類例のない埴輪状の円筒形土製品や、水銀朱の付いた片口の鉢などの土器が出土しました。 水銀朱は真っ赤な顔料で、とむらいの儀式に使われていたようです。 前方部南側には古墳を区画する溝があり、南側のくびれ部では焚き火の跡がみつかりました。 第二号墳は三世紀末~四世紀初頭に造られたものともみられます。
○第三号墳(墳長推定51m・前方部長不明・後円部径38~40m)
大正時代の記録から前方後円形であったことが分かっています。
1988年~2002年の発掘調査の結果、後円部がいびつで、前方部の短い墳形と考えられます。 後円部に棺を納めた墓穴がみつかり、マツリに使用されたとみられる水銀朱のついた片口鉢や高杯が出土しました。 後円部の周りの周溝からは壷も出土しています。 第三号墳は弥生時代~古墳時代の過渡期である三世紀後半に造られたものとみられます。
○第四号墳(墳長推定37.5m)
2002年~2003年の発掘調査結果から、秋葉山古墳群唯一の前方後方墳と分かりました。 第三号墳と前後して造られたものとみられます。 墳丘は第三号墳と比べて低く、より弥生時代の墳丘墓的要素の強いものであるといえます。
○第五号墳(約27×26m・周溝を含む)
1988年の発掘調査では西側に浅い溝が確認されました。溝からは土器がまとまって出土し、四世紀中頃に造られたことが分かりました。
○第六号墳
第四号墳の北側約250mのところにありますが、調査は行われておらず、詳細は不明です。
秋葉山古墳群は、神奈川県のほぼ中央を南北に流れる相模川から2kmほど東・標高75m~80mの丘陵頂部に立地し、古墳時代初頭を前後する時期にて営まれた古墳群である。 この地は、相模川を利用した南北の水上交通と、武蔵地域に抜ける陸上交通が交わる要衝にあたる。 海老名市教育委員会では、内容を確認するための発掘調査を昭和63年から断続的に実施してきた。
古墳群のうち最も古くさかのぼるのが三号墳である。 現状では径40m程度の円墳状を呈するが、大正年間の郷土史家中山毎吉の記録や古写真等によれば前方部の存在が確認でき、かつては全長50m程度の前方後円形の墳丘であったと考えられる。 後円部側には、幅7.8mの周溝が確認されている。 出土した土器は、東海系の高杯が見られるものの全体としては在地色が強く、時期は弥生時代から古墳時代の移行期にあたる庄内式期に併行すると考えられる。前方後方形の墳丘が卓越する東日本において、最古級の前方後円形の墳丘をもつ数少ない例である。
四号墳の墳丘は全長37.5m以上の前方後方形であり、後方部の北から西にかけては幅4m程度の周溝が確認された。 出土遺物は少ないが、三号墳に近い時期と考えられている。
これらに続くのが二号墳であり、墳丘は全長50.5mの前方後円形で、前方部前面には幅6.5mの溝が確認されている。 出土した土器は庄内式期から布留式期にかけてのもので、畿内色が強まるとともに、駿河地域の影響を受けたものもある。 また、径20cm前後・高さ40cm以上の円筒形の土製品も発見されている。 形状は円筒埴輪に類似するが、突帯を持たず、破砕されていたことから、葬送儀礼において独特の役割を果たしたとも見られる。
最も新しいのが一号墳で、墳丘は全長59mの前方後円形を呈し、前方部前面には幅2.5mの溝が確認されている。 二号墳に比べると前方部が長くなり、定型化した前方後円墳と言える。土器では布留式期の小型丸底壺などが出土している。 なお、五号墳は一辺20m・周溝を含めると26mの方墳で、一号墳と同じ特徴をもった土器がわずかに確認されている。
秋葉山古墳群は、古墳時代初頭を前後する時期に継続的に営まれた古墳群である。 なかでも、最古級の前方後円形の墳丘をもつ三号墳は、東日本では数少ない貴重な例である。 土器をみると庄内式期においては在地色が強かったものが、布留式期には畿内色が強くなるという変遷がたどれ、前方後円墳の出現期に集団間の交流の在り方に変化のあったことが示唆される。 秋葉山古墳群は、南関東における出現期古墳の在り方及びその時期の社会を考える上で重要である。
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