長勝院
○長勝院
志木市柏3-10
田面郡司長勝を頼って志木に来た在原業平、長勝の娘に一目惚れするも許されず・ついには駆け落ちをした。 追っ手は見つけることができず、草原に火を放った。 火に追われた二人は必死に逃げ、土塁の陰に身を隠した瞬間、火勢が止まった。 その地が平林寺裏山にある野火止塚。
※その昔「業平松」があった。
☆長勝院旗桜
目通り樹周り3.05m・高さ11.2m・推定樹齢400年以上のハタザクラ。 花は大きく、一重咲きの花に雄しべの一部が花弁状に変わった旗弁を生ずるヤマザクラの一種で、この種のハタザクラとしては、他に類がなく唯一の栽培品種です。
☆長勝院の版鐘
昭和60年に解体された長勝院の本堂廊下に懸けられていたもの。 銘文中に施主9人の住居地として「大塚村」の地名が記されており、「大塚」がかつて村であったことがわかる大変価値の高いものである。
☆城山貝塚・志木市柏町3-3
縄文時代前期中葉黒浜式期(約6000年前)の所産と考えられる斜面貝塚である。 ヤマトシジミ主体の淡水系貝塚であり、縄文海進の最盛期に形成された。
☆長勝院のチョッピラリン(柏町3丁目付近)
その昔、長勝院の辺りには多くの狸が棲み、庫裡にまで来ていたずらをするので困りぬいた隠居の尊祐は、狸をこらしめようと、いろりで石を焼きながら餅を食べていた。 すると「ご隠居様、私にも餅をください」と小坊主の声がした。 小坊主は住職のお供で留守であり、狸の仕業だと感づいた尊祐は、小坊主をいろりのそばへ誘き寄せ「ほれ、餅をやる」と叫ぶや否や熱く焼けた石を小坊主の股へ放り込んだ。 陰嚢を焼かれた小坊主は、悲鳴をあげて飛びあがったとたんに化けの皮がはがれてしまい、一匹の狸にかわった。 あわてた狸は「長勝院のチョッピラリン」と悪態をつきつつ逃げ出した。 尊祐もすかさず「そういう者もチョッピラリン」とやり返した。 こんなやりとりを繰り返しながら狸は姿を消したが、翌朝睾丸にやけどを負って死んでいる大狸を尊祐が発見したのは、寺の後ろの茶の木のかげであった。
☆首無しと首弁天
昔、藤原長勝の館は、大蛇ヶ淵という天然の要塞に守られていた。 この淵を水田にしたいと考えた長勝は工事に着手したが、淵には頭がはるか彼方の草むらにもぐって見えぬ程の大きな「首無しという大蛇が棲んでおり、その大蛇の怒りに触れて工事は失敗した。 そこで長勝は、家宝である弘法大師の筆による不動明王にお願いをした。 すると、夢枕に老人が立ち「この2本の矢をお前にやろう。それで大蛇の両眼を射よ。」とのお告げがあり、目をさますと2本の白い矢が置かれていた。そうして工事も再開され、終わりに近づいた頃、ついに首無しが現れた。 不動明王を心に念じて彼が放った1本の矢は、大蛇の右目を射抜いたが、2本目の矢は的をはずし、もはやこれまでと思った時、白衣をまとった若者が現われ、格闘の末に大蛇の首をはねた。 不思議なことにその若者は、夢枕の老人や不動明王に似ていたという。 長勝の手柄で大蛇ヶ淵は水田となったので、村人は彼を田面長者と呼び、田の中に残った底なし沼は「首無し」と呼ばれた。 退治された大蛇の胴は、針ヶ谷の胴山(堂山)に流れつき、首は下流の長勝の館の裏で発見されたので、長勝は100人の僧を集めて首無しの大蛇を弔い、そこに弁天の祠を建立して首弁天と名づけたという。
☆地獄谷・現志木市館1
天明年間には修験場があった、その坊数十玉なので十玉坊、その谷が十玉谷・後に地獄谷。 地獄谷には小豆婆がでたらしい…
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