オイテケ堀
天明六年洪水により天王社裏手の堤防が決壊し、すり鉢状の沼ができた。 その後堤防修復を試みるも、水流により深くえぐられていたため・切れた堤防を迂回する形で新たな堤防を造り、沼はそのまま残った。
やがて土砂の堆積で沼が浅くなり、後に埋め立てられ・弁天堂だけが再建された。
八坂神社裏手わきに昔は沼があり、そこに内池弁天が祀られていました。 この沼は天明六年の関東洪水のときに、元荒川の堤防が決壊してできたもので、人びとはこの沼を「オイテケ堀」と名づけています。 この沼の主は大きな白蛇で、人が通ると「オイテケオイテケ」と呼びかけ、沼に引き込むといって子どもたちを近づけなかったといわれています。
現在のように、上流にダムがあるわけではなく、土木工事も貧弱であった昔のことです。 川の多い越谷付近では、夏から秋にかけては、大きな水害をたびたび受けたものでした。 約二百二十年ほど前の天明六年七月の大水も、そのひとつでした。 見田方の八坂神社わきの元荒川堤防が切れて、大相模の人家や田畑が、それはもう大きな損害を受けてしまいました。 堤防の切れたところが、川底のようにくぼんでしまって、大きな大きな内池が残りました。今でもそこは、ヨシや雑草が生い茂っています。 それからのことです。日が暮れてからこの辺りを通ると、池の中から、「オイテケ、オイテケ」と悲しい声が聞こえてきます。 また、ある人は、ここには大きな白い蛇が住んでいて、池のはたを通る人を水の中に引きずり込むのを見たことがあるというのです。 ですから、みんなはここを「オイテケ堀」と呼んで、誰も近寄ろうとしませんでした。
ある日のこと、一人の巡礼者がオイテケ堀のそばを通りかかると、いつものように、「オイテケ、オイテケ」と悲しい声が聞こえてきて、何も知らない若い巡礼者は、あっという間に大蛇に飲み込まれてしまいました。 翌日、このことを知った村人たちは、かわいそうな巡礼者のために早速ここに水神宮と弁天宮をおまつりし、池の主をなぐさめました。 それからというものは白い蛇も姿を消し、「オイテケ、オイテケ」の声もしなくなったということです。
コメント