子之神社
子之神社という名の神社は、南関東から東海地方にかけて集中的に分布し、川崎市域では、旧都筑郡早野村・橘樹郡菅・野川・梶ケ谷村の4社を数えるのみです。 当神社の起源は定かではありませんが、『新編武蔵風土記稿』によると、鎌倉時代には、小沢郷7か村の総鎮守であったと伝えられます。 この小沢郷は、川崎市域の菅・細山・金程から、隣接する稲城市域の坂浜村(多摩郡)付近にかかる範囲にあったと推定されています。 時代は下がって江戸時代の頃になると、菅村の鎮守として、根ノ上社・根上明神・根之神社などと呼ばれていました。 その後、明治十年頃、社名を現在の「子之神社」に改めました。
『新編武蔵風土記稿』には、当社は、天正十八年の豊臣秀吉の小田原攻めの際兵火にあって焼失し、江戸時代前期の延宝七年菅村の領主である旗本の中根氏が、当社を管轄していた法泉寺に田畑を寄進して、社殿を再興したと述べられています。 その後、享保十三年には、佐保田与市ら三名の村民が願主となって、本殿と拝殿を造営しました。 現在の社殿は、その後に再建されたものです。 まず本殿の再建時期は、建築様式からみて、江戸時代の末期と推定されます。 一方、拝殿は、文化八年に再度造営されましたが、現在の拝殿は、さらにその後、明治十三年に改築されたものです。
子之神社本殿の造りは、「一間社流造」で、正面に千鳥破風・向拝に軒唐破風を付け、母屋の組物を三手先斗栱詰組としています。 総欅・素木仕上げの建物で、木鼻や正面の桟唐戸及び脇障子をはじめ、四面の壁面・組物などの小壁・向拝柱や繋虹梁などが、龍や三国志その他の物語の一場面を描いた素木の彫物で飾られ、幕末期の特徴を良く示しています。 このように、壁面及び細部を彫刻装飾で埋めつくした建物の事例は、神奈川県下の社寺建設では数少なく、貴重な建造物といえます。 彫物は、その精緻な彫り方からみて、江戸の名のある彫工の作と推定されます。 子之神社の本殿は、平成8年川崎市重要歴史記念物に指定されています。
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