学習院鉄門
明治十年十月十七日神田錦町に華族学校開校、明治十七年宮内庁所管の官立学校となるも明治十九年二月焼失、明治二十一年八月虎ノ門工部大学跡に移転、明治四十一年目白に移転、昭和二十五年現在地に移築。
明治十九年の火災後、鉄門扉は鐘淵紡績に払い下げられ・墨田区東京工場正門となり、その後工場拡張に伴い通用門となった。 昭和二年学習院創立五十周年記念事業の一環として目白校舎に戻り御榊壇前に仮設置、昭和二十二年四月戸山町に女子部移転した。
鉄門は、宮内庁出入りの日本橋指物師が木型を造り、川口鋳物は二代目永瀬庄吉・三代目永瀬庄吉(永瀬次郎吉)・永瀬竜吉らが製造したといわれる。
永瀬庄吉は、明治十四年にほとんど同じ外見形状の鋳鉄鉄門・吉原大門を製作。 明治四十二年完成の赤坂離宮(迎賓館)に正門と周りをかこむ鉄柵を納入。
※増田安次郎(三代目林蔵・四代目芳松)が製造したとの説もある。
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