さるや
さるや・楊枝専門店
東京都中央区日本橋室町1-12-5、03-5542-1905
古くは楊柳の木で作ったので「楊枝」。 平安時代、仏家七物の一つとして貴族や僧侶の間に広く普及した。 「猿の歯が白い」・「楊枝屋が猿を連れて売り歩いた」などの説がある。 ただし、江戸では縁起をかつぎ「エテ屋」とよばれた。
※浅草仲見世には楊枝屋が多かったらしい。
※「日本猿の歯が白いので楊枝店の看板にされた」のが有力説。
☆さるや・照降町の猿屋
宝永元年創業。 江戸時代京都三条粟田口には楊枝名店「猿屋」があり、江戸の楊枝店の多くは「猿屋」を名乗っていた。 ただし、江戸では「猿=去る」と縁起が悪いので「エテ屋」と愛称された。
楊枝入れ・楊枝
☆さるや
宝永元年創業、よい香りがするクロモジを使った手削り。
※楊枝の他端が房で歯を磨いたのが「房楊枝」・「総楊枝」
☆さるや・東京都中央区日本橋小網町18-10・楊枝専門店
古くは楊柳の木で作ったので「楊枝」。 平安時代、仏家七物の一つとして貴族や僧侶の間に広く普及した。 「猿の歯が白い」・「楊枝屋が猿を連れて売り歩いた」などの説がある。 ただし、江戸では縁起をかつぎ「エテ屋」とよばれた。
※京都には「猿屋」があった。
☆さるや
宝永年間、さるや七兵衛が日本橋照降町に小間物屋を開き、櫛・白粉・化粧油・総楊枝(現在の歯ブラシ)・爪楊枝などを販売、日本橋のお得意さんが土産品として購入することが多かった。 江戸末から明治にかけて、総楊枝と爪楊枝の製造販売を本業とした。
※紅梅散(砂を細かく砕き・香料を混ぜた)も販売した、総楊枝に使ったかどうかは不明。
※眼薬にも紅梅散があった
※明治時代、総楊枝は上総国木更津で作られたので「総楊枝」との説もある。
※現銀座地に「黄粉はみがき」を売る「いせ吉」があったらしい。
☆いせ吉・黄袋のはみがき
詳細不詳。 丸八の「黄袋のはみがき」というのもあった、ピリッとしていたらしい。
コメント