太田胃散
☆太田胃散
壬生城主鳥居丹波守家臣谷郡太夫の子源三郎(雪湖・後に太田信義)は、安政二年藩士太田家の家督相続人(太田泰蔵)となり、武道をもって身を立てた。
文久三年壬生藩から江戸に派遣された泰蔵は儒学者田口文蔵塾に身を寄せ隠密を務め、その後数々の遍歴(多すぎて書ききれない)を経て、明治十一年商道に入った。
明治十一年四月四十歳にして家族(二男一女)を引き連れ上京・日本橋村松町に住み・兜町米穀仲買商に勤め、その後日本橋呉服町で出版業を始めた。(この時の名は信義)
信義が大阪で医者(緒方医師)にかかりその時の処方薬を基に、守田治兵衛の援助を得て明治十二年胃散を発売した。 明治十四年紙包薬「雪湖堂の胃散」発売・同年缶入発売、薬の供給が需要に追いつかない程になり出版業は廃業した。 明治三十年十二月三日没。
※信義は胃弱だったといわれる
※江戸時代の遍歴は「とちぎメディカルヒストリー」参照の事
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