大黒院
○大黒院・黒塚
さいたま市大宮区堀の内町3-314、048-641-8788
☆黒塚の鬼婆
足立ヶ原に棲む鬼婆を、東光坊祐慶阿闍梨が鎮めた。 祐慶上人が東国足立ヶ原にて黒塚の悪鬼を呪伏して東光坊と号した。 その後東光寺は移転、黒塚大黒院が残る。 足立ヶ原には女盗賊もいたといわれる。
☆黒塚の大黒天
大正時代道路建設のさい、地中より出土したものを祀った。
※人皇七十代後冷泉天皇の御代永承六年、陸奥の土豪安倍頼時が叛乱を起こしたので朝廷が源頼義とその子義家に討伐を命じた。 両者陸奥への途中この地に露営を張り・明神の加護を祈り大黒天を祀った。 との話もある。
☆鬼婆 (さいたま市大宮区)
大宮氷川神社東方は「足立ヶ原」、その中にあった黒塚稲荷。
ある昔、森の中に住む老婆は、旅人を泊まらしては生血を吸い・人肉を食べていた。 これを聞いた紀州熊本の東光坊阿闍梨祐慶、この地に庵室を造り・二十一日間呪文を修して折伏し、鬼女を石に化した。 この石を埋めたのが黒塚、庵室が東光坊(後に東光寺)。
※黒塚稲荷は、浦和に移転したらしいが詳細不明。(北武蔵の巻・大宮市史第五巻)
※東光坊阿闍梨祐慶は、武蔵坊弁慶の師匠。
※「奥州安達ヶ原の鬼婆」の源ともいわれる。
☆黒塚伝説
「安達ヶ原の黒塚(福島)」と「足立ヶ原の黒塚(大宮)」とがあるが、自慢できる伝説ではないので黒塚本家争い等無く消極的展開。 ただ、歌舞伎で黒塚上演の際は近場である大宮黒塚に詣でることが多かったらしい。 また、大宮黒塚には沢山の板石塔婆が埋まっているといわれるが、もはや住宅地となり地権者が発掘調査を許すはずもなく、明らかになることはない。
※大宮黒塚は断罪人処刑場だったとの説がある。
☆土呂の黒塚(九郎塚・蔵人頭塚)
安達籐九郎盛長の首塚だったとの噺も…
☆黒塚稲荷
社の上方には孤松・脇には大黒像、黒塚周辺には東光坊・西楽寺・宗金寺・来段寺・萬日堂・焔魔堂などがあった。
☆蛇松
この地の池沼に棲む大蛇が、この松に登って昼寝をしたらしい…
※他説もある。 鷹止松(鷹留松)があったのは、現大宮公園東駐車場。
※この地に人を近づけないために作った伝説との説もある。
☆蛇松・鷹止めの松
古くは大宮名所の一つだった。
※慶長年間家康氷川社参りのおり、岩井兵部の案内にて社領内柳堤にて鷹匠より奉る鷹を自ら放ち給うに、かの鷹何物に驚きにしや脇の松に止まりぬ。 案内の岩井兵部はいたく驚き・神助を念ずるや件の鷹こともなく御手元にかへりしまま、家康名神の神徳奇妙なりといたく畏敬し、自来上意によりその松を鷹止めの松と称へたりとか。(他説もある)
※右が蛇松・左が鷹止めの松、とよぶ人もいた。
☆黒塚
小名堀ノ内にあり、高さ一丈許、徑り七八開の塚にて、松樹雑木等生茂れり、塚上に狐松ありて其下に八幡の小社を建、又側に石にて造りし大黒の像一軀あり、相傅ふこの黒塚は、昔三沼新田の新開あらざる頃、大宮の神主氷川内記と称せしもの、彼の沼に居る雁鴨等を取んとて、往来人の見とがめんことを恐れて、よなよな鬼面を被りて驚かし、その隙にかの鳥を取しが、顯はれて難儀をも奪はれ、改易となりしとなり、その後農人等鬼いでしと云ふらし、はては奥州安達郡の黒塚に擬して黒塚と唱へ始めしといへど、こは強言と云ぺし、夫をいかにと云に、村内東光寺の撞鐘元緑九年の銘文に、数百年前熊野那智山宥慶師なるもの、曾て檀門を打て足立郡大宮邑に宿りし時、黒塚と云古塚有て種々の妖怪をなし、人を悩せしかば、慶師法力を以てこれを伏すとのせたり、東光寺は昔真言宗にして、曹洞となりし時の開山梁室和尚長享元年化すといへば、黒塚の名の書きこと論なかるぺし、黒塚と唱ふるには自らゆへあるぺけれど、古き世のことなれば博へを失せしならん、
☆黒塚大宮市堀ノ内
東光坊阿閣梨祐慶が紀州より奥州へ下る道すがらこの地のとある一軒家に宿を乞い、深更に及んで老婆の寝屋の中をうかがい見るに人の死体が数知れず積みあり驚きのあまり逃げんとするを深夜のもてなしにと裏山より薪を採り帰れる老婆に追いかけられたが法力に依って祈り伏せた。 そして僧は一堂を建立した。 それが今の東光寺の起源であるという。 先年この黒塚につき福島県の二本松と論争があったが、一説には昔氷川神社の内記という神職が禁を破って沼の魚鳥を捕獲し食べるぺく、人目をさけるため鬼面をつけて出たという。 即ちこれが鬼婆の伝説と結合して誤伝されたのではなかろうかとも云われている。 然し歌舞伎で黒塚を上演する時には今も俳優が大宮の黒塚に参詣するという。
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