旧鳩ヶ谷里郵便局
江戸末期矢作喜平が紺屋(藍染屋)から分家し紺屋を開いた。 明治時代には矢作茂七に次ぐ規模藍染屋となった。
屋敷裏の芝川境橋には「里の船着場」があり河川交通の要所でもあった。
1940年9月、五代目が私財を投じて建設したのが三等郵便局(特定郵便局)。
※江戸時代は藍が栽培され多くの紺屋があったが、明治時代に合成藍が輸入され藍染は衰退した。 最盛期には、まる初・紺喜・紺鉄・紺善(旧川村染工場)・坂の紺屋(紺屋呉服店)・紺孝・稲荷の紺屋・紺吉、などの藍染屋があった。
(川村染工場)
文政八年塚越村高橋新五郎が、機台を改良し・後に双子縞織物を作りだした。
天保年間鳩ヶ谷に藍染と機械を備えた染織工場が増え、江戸時代末には庶民の需要が増え最盛期をむかえたが、明治三十年頃には化学染料の普及により衰微していった。
享保年間甚右衛門が江戸で藍染技術を取得し・見沼用水縁に居をかまえた。 その後見沼用水沿いに四軒が分家し、紺善(川村染工場)・紺吉・紺鉄・紺考・紺吉を開業した。 その後、まる初(糸染)・坂の紺屋(紺屋呉服店)・紺屋ができた。
☆紺屋の明後日
紺屋の仕事は天候に左右され仕上がりが遅れがちなので催促されるといつも「あさって」と言い抜けたことから、約束の期日が当てにならないことのたとえ。
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