三和町住宅
〇三和町住宅(蕨住宅)・現蕨市南町2~3
太平洋戦争により軍需産業が急激に膨張すると、住宅難が深刻な問題となった。 政府はその対策として住宅営団を設立し、空地となっていた三和町(現南町)の土地を買収し・約880戸の営団住宅を建設した。
※碑は住宅敷地をイメージしている
大正九年頃水田地主貫井金次郎らが星製薬株式会社誘致のため約十万坪の土地を売却するも工場建設挫折、1931年土地は公売され深川・木村徳兵衛が取得するも荒地のまま、1937年戸田村が第十二回オリンピック漕艇会場に決定し・ボートコース建設の開削で出た大量の土の捨場となった。
日中戦争の軍需景気による労働者増加のため1938年厚生省が住宅対策として住宅営団を設立し、蕨穂保作住宅と報国農場を建設することになった。(木村徳兵衛一人の所有地だったので用地買収不要、建造物も無かった)
1941年蕨穂保作住宅の建設がはじまり、1943年より入居(886戸)が開始され、造兵廠(北区板橋区)・被服廠(北区板橋区)・造兵廠大宮製造所・沖電気(疎開工場)など軍需関連産業官舎・社宅が多かった。(これが後に空爆対象となった)
※土地が穂保作・大荒田・下戸田字後の三地域にまたがっていたので「三和町(さんわ)」と名付けた。
※住宅営団はGHQにより戦争協力機関とみなされ1946年12月25日解散、その後清算機関により土地・建物が払い下げられた。
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