中島飛行機淺川工場
○中島飛行機浅川工場(第一軍需工廠・第十一製造廠)
1917年飛行機研究所創立(尾島町)、1918年中島飛行機製作所に改称、1931年中島飛行機株式会社に改称、1938年武蔵野製作所開設(陸軍用発動機)、1941年多摩製作所開設(海軍用発動機)、1943年武蔵野製作所と多摩製作所が合併して武蔵製作所、1944年軍需省管理下に入る・地下工場工事開始、1945年浅川へ疎開、8月第一軍需工廠解散。
※1944年、陸軍が松代に大本営用のトンネル(約四万平方メートル)を、浅川に東部軍用に約三万七千平方メートル、その他小牧・高槻・山家を計画した。 浅川については、後の情勢で「中島飛行機武蔵製作所」を収容することになった。 六月には従業員4000名(一説には1000名)が働き、浅川町の人口は一万人を超えたともいわれる。
※浅川駅からは引き込み線(二路線)が計画されたが、資材調達できず満足なものは造れなかったらしい。
○太田製作所(第一軍需工廠):地下工場14箇所(西長岡八王子丘陵・藪塚工場ほか)、分散疎開工場147箇所。
○小泉製作所(第二軍需工廠):地下工場2箇所(古馬村後閑・郡山)、分散疎開工場18箇所。
実際に稼働したのは、後閑と郡山のみ。
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