武蔵国分寺跡
○武蔵国分寺跡・史跡公園
国分寺市西元町1丁目から4丁目付近
奈良時代の中頃、聖武天皇は仏の力で国を安定させるために、諸国に国分寺の建立を命じました。 武蔵国では、都と国府(現府中市内)を結ぶ古代官道「東山道武蔵路」沿いの東に僧寺、西に尼寺が計画的に配置されました。
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○武蔵国分寺跡・附東山道武蔵路跡
国分寺市西元町・東元町、府中市栄町
聖武天皇ノ朝ニ置カレタル國分寺國分尼寺ニ次キテ曩ニ指定セラレタルモノノ外當時ノ土壇礎石及土壘等ノ殘存シテ其ノ舊規ノ多ク觀ルニ足ルモノヲ擇ビタリ
武蔵国分寺跡は、大正十一年十月十二日に塔跡・金堂跡・講堂跡・北院跡・西院跡等が、昭和51年12月22日には東僧房跡が一部追加指定された。 昭和54年は、その後の発掘調査によって明らかになってきた西院跡(国分尼寺跡推定地)の一部を追加して指定し、保存を図るものである。
武蔵国分寺跡は、国分寺市の東南部に位置し、天平十三年の国分寺・尼寺創建の詔に基づいて諸国に設置されたもののひとつである。 その変遷は、創建期(八世紀代)・整備拡充期(九世紀代、七重塔再建)・衰退期(十世紀代から十一世紀代)の三期に分けられる。 また、遺跡の調査は昭和31年以降実施され、その結果、東西八町、南北五町の寺地とその中央北寄りの僧寺地域(約四町四方)および南西隅の尼寺地域(約一町半四方)の配置と、僧寺西辺を通過する東山道等が確認されている。
今まで、僧寺地区と尼寺地区の中心部分を保存してきたが、寺地全体の保存は十分ではない。 今回、僧寺寺域を画する築地の部分と尼寺の伽藍の一部を追加して指定し、その保存を図ろうとするものである。
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