江戸の野菜
こま込めのなす
※茄子、徳川家康が好んで食べたといわれる。
☆駒込土物店
江戸三大青果市場の一つ(他に神田と千住)。 元和元年開場、明治十年駒込青果市場となり「辻のやっちゃ葉」・「土物店」とよぱれた。 1937年巣鴨に「豊島市場」に統合された。
※やっちゃ場・前菜物市場、競りの掛け声が「やっちゃやっちゃ」と聞こえたらしい。
※天保十三年老中水野忠邦「奢侈僣上禁止令」により、一部野菜の出荷期間が定められた。
※天栄創草木記
☆駒込土物店跡、文京区本駒込1・天栄寺境内
駒込辻の土物店は、神田・千住とともに江戸三大青物市場であった。
○後関晩生小松菜・城南小松菜
享保四年徳川吉宗が鷹狩りのおり、西小松川香取神社御膳所で食した餅澄まし汁が美味しかったので、中に入っていた冬菜を小松菜と名付けた。
○練馬大根・高倉大根・志村みの早生大根・東光寺大根
徳川綱吉が館林藩主松平馬守だった頃江戸詰で脚気になり、下練馬で養生中に尾張から取り寄せた大根を周辺農家に栽培させた。
○亀戸大根
関西から砂村の入植者により持ち込まれた「四十日大根」が元、江戸末期に「葉の付け根が白い大根」が見つかり人気になった。
※亀戸大根、大根表面の白さと葉の形から「お多福大根」・「おかめ大根」とよばれた。
※万治元年に砂村新左衛門(越前生・摂津育ち)により遠浅の湾岸が干拓され砂村新田が造られ、関西から多くの入植者がやってきた。
○滝野川ごぼう・渡辺早生ごぼう・中ノ宮ごぼう
元禄年間滝野川に牛蒡の生産が始まり、その後練馬東大泉で「渡辺早生ごぼう」・練馬中ノ宮で「中ノ宮ごぼう」が生まれた。
○馬込半白きゅうり
明治三十年栽培が始まり、明治三十七年頃に馬込・大農園(河原梅次郎)にて「馬込半白節成きゅうり」が生まれた。
☆馬込半白節成きゅうり
明治三十三年馬込周辺で改良・育成された。 元は「大井半白節成きゅうり」、その後「相模半白きゅうり」が加えられた。
○雑司ヶ谷なす・駒込なす
江戸時代後半から大正時代中頃まで栽培された。
○谷中しょうが
お盆に収穫される葉しょうが、中元贈答品(檀家回りの手土産など)に人気だった。
○内藤とうがらし
内藤新宿周辺で栽培された八房唐辛子。
☆内藤唐辛子(八房トウガラシ・八ッ房蕃)
信濃国高遠藩主内藤狭守の上屋敷内では、農民に唐辛子や南瓜(菊座カボチャ)などを栽培させていた。 自家消費で余った野菜は、屋敷近くに青物市場を設けて販売した。
※甲州街道高井戸宿への中継地として、元禄十一年内藤新宿(内藤家所有地に新しい宿)が設けられた。
☆レンコンをつくるとその家は潰れる
少ない耕地面積で穫れる蓮根は農家にとつては魅力であったが、大量の肥料が要るため多くの資金が必要だった。 が、足立地方では洪水が多く・害虫被害もあり、資金が回収されずに借金となることも多かった。
☆落語「二番煎じ」、獅子鍋に入っているのが千住ネギ。
☆砂村・砂町
古くは中川河口の寄洲、相模国三浦郡砂村新四郎が干拓した。 砂村家は代々名主、野菜を栽培し、本所・神田へ出荷した。
☆唐茄子の安倍川
☆青物は野菜、赤物(紅物)は果物。
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