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お竹如来の墓

Kitaku_otake1○お竹如来の墓
 東京都北区赤羽西6-15-21・善徳寺

 江戸大伝馬町佐久間家女中「お竹」は評判の信心家、「お竹こそ生身の大日如来」といわれた。

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Kitaku_otake5 善徳寺は関東大震災のあと、浅草よりこの地に移転してきました。この寺には「お竹如来」の墓があります。 この墓は、江戸大伝馬町の佐久間家のお屋敷にいた「お竹さん」という女中さんを供養したものです。
 「お竹さん」は大変情に厚い人で人々から「生き仏様」といわれていました。 ある日、一人の行者が夢のお告げを受けて「生身の大日如来にあいたい」とお竹さんのもとを訪ね拝んだところ、お竹さんから後光がさしました。 佐久間家ではお竹さんに庵を造り・庵主にすえました。 徳川五代将軍綱吉の母がこの話に感動し、女性の鑑としてほめたたえたということです。
 また江戸時代、御伝馬役を代々引き継いだ馬込家の墓もあります。

Kitaku_magome○馬込家墓
 東京都北区赤羽西6-15-21善徳寺前
 善徳寺の墓域内には、江戸時代、大伝馬町の御伝馬役名主として活躍した馬込家の墓があります。 御伝馬役とは江戸伝馬役と呼ばれるもので、大小の伝馬町と南伝馬町・四谷伝馬町が五街道と江戸府内近郊へ人馬を継ぎ立てる夫役をいいます。町名主の馬込家は代々、この運営にあたりました。 また、他の町で同様の役職にある名主家とともに、名字・帯刀を許可され、町名主の筆頭として年頭に将軍の御目見が許されていました。
 馬込家は、遠江国敷智郡馬込村(浜松市)の出身といわれ、本名を平八、当主になると勘解由と称していました。 馬込という家名は元和元年五月、大坂落城の後・浜松宿の馬込橋まで徳川家康を迎えた時、500人の人足を引き連れて迎えたことを喜んだ家康から与えられたと伝えています。
 最初菩提寺は増上寺でしたが、その後、増上寺開山聖聡の弟子の楽誉聡林が開基した善徳寺の檀家となりました。 墓地は善徳寺が数度の火災を受けて、日本橋馬喰町浅草松葉町へと移転したのに伴って移されましたが、関東大震災によって罹災したため、昭和2年4月に赤羽へ移転した善徳寺とともに現在地へと移りました。

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横線540

○富士見坂
 東京都北区赤羽西6-15-21地先・善徳寺前
 この坂を富士見坂という。このあたり、昔は人家のない台地で、富士山の眺望がよかったところからこの名がついた。 江戸時代の「遊暦雑記」には、「左右只渺茫たる高みの耕地にして折しも夕陽西にかたぶきぬれば全景の芙嶽を程近く見る、比景望又いうべき様なし」と記されている。
 かつてこの近くに周囲約500mといわれる大塚古墳(円墳)があったが、いまは見られない。

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