梅の木稲荷 メモ
☆梅の木稲荷(屋敷神・はやり神)
笹目大畑宅前路上にみかんや菓子が降ってくる・庚申塔に供えた物がすぐになくなる、との噂が広がるもキツネのしわざといわれた。 やがて五郎右衛門宅天井裏から話し声・音楽らしきものが聞こえる、と噂されるようになった。
新聞報道後すぐに梅の木稲荷の名が知れ渡り・毎日三百~四百名の人々が訪れるようになった。 参詣人は蕨駅からは人力車に乗り、後にテト馬車が運行され、また戸田船着場へ船を利用する者もいた。 さらには軽便鉄道敷設を唱える者も現れた。
参詣人が増えると、掛茶屋・休憩所・料理屋(本梅)・蕎麦屋・鮨屋・団子屋・飲み屋・風呂屋・芸者置屋・土産屋などができ、梅木通りには280店を越える露天商が開かれた。 土産は、瀬戸物の狐「御姿」・梅の実を形どった飴・梅の木せんべい、など。
大正三年二月本殿健立されるも秋には陰りが見えはじめ、数回の洪水に見舞われ、関東大震災で神楽殿など崩壊。 1942年大畑五郎右衛門死去しその後上戸田へ移転、 1956年再び笹目へ戻ったがすでに土地が売却されており現在の形となった。
※屋敷神のうちは問題なかったが、梅の木稲荷となると許可を受けない宗教活動とみなされ禁止されるので、名目上「梅の木稲荷教会(大成教傘下)」と名を変え存続した。 これにより本殿などを健立し一般の神社と同じ風景になったのが、数年で衰退した理由の一つといわれる。
※事のはじまりは、二階からミカンや菓子を投げたりするナツの奇行だったらしい。
----------埼玉新報・大正二年二月八日
○浦和在の物騒
北足立郡浦和町より西南方なる笹目四十七農大畑五郎右衛門方の居宅二階と物置の二階等にて昨今昼夜の別なく楽隊の音すかと思へば五六人も打寄りて晴々私語談論する声のありと聞ゆるより家人は大に恐怖し夜の目も寝られぬ有様に身体疲労し今は殆ど半病人とも云べき姿となりたるより付近の人々は大に憐み其子細を尋ねたれば今は包むによしなく有りのままを打語れば好奇心にからるる誰れ彼れは怪物の正体を身あらわさんと同家に集り今か今かと待つ間に居宅二階で泣くが如き声を聞くかと思へば物置の二階では左も陽気の音楽を打鳴らす如き音の微に声するより流石の若者の大に打驚き村内の人々に打語りたれば大評判となりたるを同村駐在所の門田巡査が聞知し
……村民の騒ぐを見逃し置く訳にも行かざれば一昨六日午後二時頃より大畑方に出張し……
イザ怪物の素ッ首引抜き呉れんと身構え居れど同夜十二時頃までは何の変わりたることなかりしかとぞ之れが為め同村民は恐怖一方ならず白昼殆ど往来も杜絶し婦人女子は小便へも行けぬ程なりと云ふが孤狸の所業か又は同家に恨のある奴が斯々悪戯を為し同家の人々を恐怖せしむるにはあらざるかと同巡査は専ら犯人自体を堅実に捜索中なりと云ふ」
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新聞報道をきっかけに、怖いもの見たさの好奇心から人々が大畑宅に押しかけるようになった。 五郎右衛門の三女でさくという当時6歳になろうとする童女がいた。 彼女にはナツという子守り役の娘がいたが、あるときどうしたのか、ナツは訳のわからない言葉を口走ったり、生魚・生野菜をかじったりしてみせたという。 このようなことも「キツネ憑き」と呼ばれてきたことだが、童女さくはナツの言葉を聞きわけて、人々に取り次いだという。 キツネ憑きの言葉がわかったさくは、たちまち“生き神さま"・"稲荷さま"として崇められてしまった。 家をのぞきこむ人々はますます増え、なかには柏手を打って拝礼したり、賽銭を投げていく者もあらわれた。
五郎右衛門は小作人で、農業の他に生計を助けるために賃織を副業とする質素な生活をしており、人付き合いも不得手な小心な性格のため、人々の参集にとまどって稼業も手につかない状態となった。 そこで、近所の人の発案で庚申塔の前にミカン箱を置き、瀬戸物のキツネの置物を入れて、厄除け稲荷とした。 この小祠に参詣人が増えだすと、稲荷を宅地内に移して「梅木稲荷大明神」の軸を掛けた。 梅の木稲荷という名称は、五郎右衛門宅に梅の木が何本もあったことから付けられたと言われている。「拝んだら御利益があった」とか、「霊験がある」という人が増えて、急速に全国的に知られるようになっていった。
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