留萌 メモ
鰊粕製造所
○庄内藩ハママシケ陣屋跡
浜益郡浜益村
安政元年長年の鎖国を破って日米和親条約を結び下田とともに箱館を開港した江戸幕府は、翌安政二年東西蝦夷地を幕府直轄にするとともに、松前藩のほか仙台・南部・津軽・秋田の四藩に東西蝦夷地・北蝦夷地の分担警備を命じた。 安政六年にはさらに会津・荘内両藩を警備に加え、奥羽六藩に蝦夷地の開墾守衛を行わせて北方の備えとすることにした。
出羽荘内鶴岡の荘内藩主酒井忠発は、同年9月に幕府から西蝦夷地のハママシケ(浜増毛、浜益)領、ルルモッペ(留萌)領からテシホ(天塩)領まで、テウレ(天売)・ヤンゲシリ(焼尻)島を下賜され、ヲタスツ(歌棄)領からアツタ(厚田)領までの地の警備を命じられた。 藩では早速蝦夷地総奉行・用掛・元締役・箱館留守居役を任命し、翌万延元年5~6月には現地において幕府箱館奉行から新領地引渡しを受け、その後新領地諸役人や警備開墾の派遣人数を定めている。 本陣屋を置くハママシケには副奉行以下物頭1人・足軽40人・元締及兼郡奉行・目付役・兵糧方金受払方兼普請方代官各1人・平士20人・医師2人、徒目付・足軽目付・大工棟梁各1人、開墾并ニ諸職人郷夫等40人ほか従者合計193人、脇陣屋を置くルルモッペには計57人、トママイ(苫米)には計161人、テシホには計29人が配置されている。 翌文久元年三月には蝦夷地総奉行から新領地赴任の士民に現地での心構えの諭告があり、藩士・農民の移入が行われた。
○旧留萌佐賀家漁場
留萌市礼受町
北海道の日本海沿岸に連なる江差・寿都・余市・留萌等の沖合は、江戸時代から蝦夷地有数の漁場として知られる。 とくに江戸時代後期以降は、鰊漁の漁場として繁栄し、これにともない日本海沿岸に多数の漁場施設が建設された。
留萌場所の開設は慶長年間とも伝えられる。 当初は松前氏一族の知行所、後に松前藩士工藤家が世襲する場所となり、十八世紀後期からは藩主の直領となった。 十八世紀前期からは場所請負による漁業経営が行われている。 天明年間になる「蝦夷地案内記録」には「ルルモッペ」の場所名があり、鮑串貝・魚油・いりこ・鰊などの産物があったことが記されている。
佐賀家が留萌場所における漁場経営に参加するようになったのは、弘化元年のことである。 佐賀家は陸奥国南部田名部領内の下風呂村に在住し、代々漁業・海運業を営み、蝦夷地とも交渉をもっていたが、この年、七代佐賀清右衛門は平之丞(八代)を留萌場所の礼受に赴かせ、漁場を開設した。 佐賀家の屋号「因」は、松前の田中藤左衛門の屋号であるが、これは場所請負制下での漁場経営には松前の人別であることが必要であったため、清右衛門が田中藤左衛門の名義を借りて経営を開始したものと考えられる。
○旧花田家番屋(北海道留萌郡小平町
明治/1905、 桁行29.4m・梁間22.7m・二階建・西面玄関附属、
北面東突出部 桁行10.9m・梁間6.7m北面便所附属、
北面西突出部 桁行10.0m・梁間6.2m・寄棟造・中央腰屋根付・玄関入母
北海道留萌郡小平町字鬼鹿広富35番地2
北海道に残る大型鰊漁場建築の数少ない遺構で、ヤン衆(雇漁夫)の宿泊設備がよく残っている。 巨材を豊富に用い梁組は豪壮である。 北海道の風土色にあふれる建築で盛時の鰊漁を知る好資料である。
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