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網焼き・ラム肉ねぎ塩 (すずもと @川口市戸塚4130-5、048-295-5844、月休)今日は「ラム丼」にしてみた。
いがまんじゅう(赤飯饅頭) (愛宕茶屋@久喜市中央1-15-23、0480-22-4867)○饅頭の外側は赤飯。
☆旧生方家住宅・かどふぢ薬局 沼田市西倉内町594・沼田公園内(旧所在 群馬県沼田市上之町)
○上信鉱山 1940年蝋石鉱床発見、アルミナ・ジュラルミンの原料として軍需産業指定、終戦で閉山。 1954年光山電化上信鉱業所として再開、窯業用耐火煉瓦原料として出荷、露天掘りから柱房式採鉱になり日本鋼管に出荷。 その後元山に焼成炉2基により水分を除いたシャモットとして出荷した。 1963年休山・撤退。
○毛無峠道 六百年以上前は碓氷峠に匹敵する上信を結ぶ道であったが、江戸時代初めには抜け道となるとの理由で停止された。 しかし、何者かが御停止道を切開き・堀割のないところに新道を作ったのが、幕府に伝わり元禄十四年封鎖された。
○旧生方家住宅・かどふぢ薬局 沼田市西倉内町 沼田公園内 1973年、沼田市が生方家より譲り受けて沼田公園に復元移築。
○洞爺丸洞爺丸:1947年11月就航、1954年9月26日、台風沈没。
網焼き・ラム肉ねぎ塩 (すずもと @川口市戸塚4130-5、048-295-5844、月休)
クリームパンとアンパン (@木村屋總本店)
○カンカン踊 文政四年春、葦屋町河岸にて唐人踊なる見世物が出「カンカンノウ」とて蛇皮線に合わせ・銅鼓を叩き・法螺を鳴らし・大蛇を舞った。 後に、両国広小路・深川八幡でも開かれ・子供たちが真似て踊り・江戸市内を風靡したといわれる。 文政五年には禁止令が出たが、みんなで無視した。
○群馬鉄山 1929年富士塗料が採掘、王様クレヨンの原料となった。 1943年日本鋼管(裏に陸軍あり)が採掘権取得、1944年太子まで鉄道敷設、1945年出荷開始。 1950年元山で硫黄分を取り除く目的で焼結工場建設、この後公害問題続出し1965年閉鎖(大鉄鉱山閉鎖)。
○鹿占・貫前神社 鹿の肩甲骨を決められた作法で焼き・焼錐で貫き・生じたひび割れや焼け焦げ痕で、吉凶を占う。 全世界で行われてきた習俗でもあった。
○日高丸日高丸(貨車航送船):1948年10月就航、1954年9月26日、台風沈没。 1956年浮揚復航、1969年9月終航。日高丸(2代目)(貨車航送船)(貨車55両):1970年4月就航、1984年1月終航。 1987年売却され、後に韓国で解体。 1980年10月から1982年3月まで係船。
ジンギスカンセット (すずもと @川口市戸塚4130-5、048-295-5844、月休)☆絶品保証、身も香も味もやわらかい。
さいたま盆栽みどり山 (和生菓子 豆の木@さいたま市北区日進町2-810)○和菓子 どら焼き風だが、抹茶が入っているわけではない。
○上毛モスリン 明治29年毛布織合資会社創立、明治35年上毛モスリンに改称、明治42年旧館林城二の蹟に工場移転、大正15年倒産し共立モスリン・日本毛織館林工場・中島飛行機館林工場・神戸生絲館林生絲工場と変わり、平成五年解体された。 上毛モスリン新工場建設に伴い新しく道路が作られ、トロッコ路線が敷かれ館林駅との運送に用いられた。
○小野小町像(内山永久寺蔵) 平安期の食通として、鯉・鱸・鮒・鶉汁・熊の掌・鵞鳥の咽喉・兎の唇など何でも食べたらしい。 その結果晩年がコレともいわれる。 ☆徳川将軍家では、嘉例として元旦に「兎の吸物」を食したらしい。 ☆鶴料理 江戸城には、正月祝膳に将軍より重臣に「鶴の吸物」が振る舞われたらしい。(豊臣秀吉が朝廷に献進したといわれる) ※長寿を願って、年始の嘉例に鶴を調理した。
○関東興産・浦倉鉱山 赤川周辺には古くから鉄鉱床があったが品質が悪く見放されていた。 猟師らが「豚の口」で良質の鉄鋼石発見、1953年関東興産浦倉鉱山発足し赤川第一鉱床・1956年猪の口鉱床・1959年土鍋鉱床・1962年赤川第二鉱床、露天掘り・二田沢まで森林鉄道。 1964年休山・1965年閉山。
○北見丸北見丸(貨車航送船):1948年2月就航、1954年9月26日、台風沈没。
茶饅頭 (浦和青柳@さいたま市南区文蔵2-10-9)
○宗八鰈・惣八鰈 「そうはち」髪型の「総髪」のこと。 総髪の人を正面から見た形に似ているので、「そうはつ」→「そおはち」となった。
○館林駅 明治40年8月、川俣~足利開通に伴い開設、昭和12年西口開設。
○白根鉱山(硫黄) 昭和初期霜田善造が露頭発見、1933年本格的に開発開始、1936年大雪崩、1971年休山、1974年撤退。
○渡島丸渡島丸(貨車航送船):1948年7月就航、1965年8月終航。 1950年10月洞爺丸と同時に日本の商船初のレーダーを取り付け。 渡島丸(2代目)(貨車航送船)(貨車55両):1969年10月就航、1978年10月終航。 1984年函館どっくで解体。 在籍したうちの6年半は使用されずに係船されていた。 なお解体直前に摩周丸火災事故の現場検証で船橋部分の燃焼実験が行われた。
(さいたま市南区別所4-12)
招きうさぎ (松月堂@浦和区本太2-8-16)○小豆・柚子・栗・梅、がある。
○吾妻鉱山 1908年猟師が露頭発見、1914年群馬硫黄開発開始その後吾妻硫黄が買収、1928年落盤事故も順調に発展、1971年閉山。
○十勝丸十勝丸(貨車航送船):1948年4月就航、1954年9月26日、台風沈没。 1956年浮揚復航、1970年3月終航。 青函航路に最後まで残ったタービン船だった。 十勝丸(2代目)(貨車航送船)(貨車55両):1970年7月就航、1984年1月終航。 1987年売却、台湾にて解体。
○浅間山溶岩樹型(鎌原) 浅間山噴火の溶岩流が、立木をまわりから包んで固まり・木を燃えつくした。
ネコ除け。ヒト除けは無いのか…
しずおか 茶 コーラ (木村飲料株式会社@島田市宮川町2429)○炭酸飲料、240ml。※お茶大好きなやまだくんには、美味さ解らず。
○小串鉱山 明治時代に鹿島組・東洋硫黄が採掘、1916年高井鉱山(長野県側)となるも堀り尽くし、1923年群馬県側採掘、1929年北海道硫黄小串鉱山となる。 1937年落盤爆発事故、再開後日本第二の大鉱山となる、2000人以上の大鉱山町となったが回収硫黄に負け1971年閉山。
○揚げ船(板倉町) 利根川と渡良瀬川に挟まれた邑楽郡板倉町は、川や沼が多く低地であるため大雨が降る度に洪水にみまわれてきた。 いったん洪水になるとなかなか水は引かず、いろいろな洪水対策が施されてきた。 そのひとつに「揚げ船」があり、軒先や納屋にそこを上にして吊るしていた。 洪水については、「蛙が小便をしても水が出る」とさえ言われていた。 ※西長尾は船底が下、東長尾は船底が上に吊るされたとされる。
○石狩丸 石狩丸(車載客船→貨車航送船):1946年7月就航。 デッキハウスを設置して竣工したが、1958年7月に撤去。 1965年9月終航。
○五料の茶屋本陣(中山道松井田宿) 「お東」と「お西」と称し東西に二軒あり、村名主の中島本家と分家が務めた。 宿と宿の間の街道筋に、参勤交代の大名などの昼食・休憩用に茶屋本陣が置かれた。 上野国内は、上富岡(高崎~飯鼻)・五料(安中~松井田)・横川(碓氷関所)・羽根石(坂本宿~碓氷峠)・山中(坂本宿~碓氷峠碓氷関所)、ほとんどが村名主の旧家であった。 ※街道の茶屋・大名行列時の宿場では、一度の大勢に対応できないので茶漬けの一汁一菜が普通であった。(武士・庶民も中食は茶漬けだったらしい)
秩父鉄道・三峰口駅
富山ブラックサイダー醤油・胡椒風味 (株式会社トンボ飲料@富山市下赤江町1-6-34)○炭酸飲料、240ml
○本谷事業所(営林署)・上野村 1933年開設、20年ほどで閉鎖(廃村)。 本谷は、営林署従業員らの生活の場であった。(ランプ生活だったらしい) 木材搬出はトロッコをガソリンカーが三岐まで牽き、トラックで輸送した。 また「トロッコ道」もよばれ生活路でもあった。
○昌慶丸昌慶丸(客船):元・関釜連絡船。 1947-1948年青函航路就航。 洞爺丸事故後、乗組員訓練船として函館港に繋留。
○さんごの滝(三五郎滝) 鎌原家下僕三五郎が大蛇を追い、この滝で任とめ鱗を持ち帰ったとされる。※現状未
ホエー豚の豚丼 (ホットペッパー@長万部)
世界に誇る大宮盆栽大宮盆栽ダー(サイダー) (株式会社ハーベスト@浦和区常磐9-21-14)○炭酸飲料(335ml)
○水塚(板倉町) 一階は食料保存倉庫、二階は避難場所となる。 一階は、麦俵の上に米俵・大豆を積み、味噌や醤油は樽に詰め縄で柱につないでおいた。
○宗谷丸宗谷丸(貨客船):元・稚泊連絡船。 1945年10月-1950年10月、1954年10月-1954年12月青函航路就航。
☆鍋山人車軌道 明治三十三年寺尾町~栃木町(約15.9km)開業、昭和十二年鍋山軌道に改称、昭和十六年失効。
○すすり団子・砂糖ねじ・甘ねじ もちもろこし(コーリャンなど)の団子をお汁粉に入れて食べる。
○碓氷鉄道 アプト式官線では輸送量に限界があるので、トンネルを設けた南回りルートを敷設する「碓氷鉄道株式会社」を計画したが没となった。
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