― 人生に遊び楽しむ、おいしい・たのしい・おもしろい ―
○松井田宿 室町時代に松井田城が築かれ、碓氷峠を扼する要衝であった。 1603年五街道の一つとして中山道が制定され松井田に宿場町が開かれたが、宿場町として整ったのは1700年頃とされる。
続きを読む »
○染料植物園・染色工芸館 (高崎市寺尾町2302-11、休園:月曜日・祝日の翌日・年末年始) 日本唯一の染料植物園。
○上野国の由来 古くは「毛野国」と言っていたが、広すぎるので都に近い方を「上毛野国(かみつけののくに)」・都から遠い方を「下毛野国(しもつけののくに)」と分けた。 ※「つ」は助詞で「の」の意 時は大宝律令、国名を二字で表記する事になった。 この結果は、「毛」を取って「上野」と「下野」になったが、読みはそのまま残り「かみつけの」と「しもつけの」であった。 時とともに、「しもつけの」→「しもつけ」となり、「かみつけの」→「かみつけ」→「かんづけ」→「かうづけ」→「こうづけ」と変化した。
○安中宿 1559年安中城築城、その後1591年井伊直政支配下になると伝馬使用禁止となった。(碓氷峠警備で手がまわらなかったともいわれる) ※実際の安中宿は規模が小さく、藩からの助成金でやっと運営していたらしい。
○関越自動車道・永井川橋 構造形式:PC5径間連続桁橋 橋長:487.5m 橋脚高さ:75.7m 最大支間:123.0m 施工法:場所打ちカンチレバー工法 定着方法:ディビダーク工法 所在地:群馬県利根郡昭和村 発注者:日本道路公団 完成年:1984年 工費総工費:7,959,000(千円)
○どこまで知ってる群馬の地名 鮎川(あいがわ)、 間の島(あいのしま)、 赤岩(あかいわ)、 秋畑(あきはた)、 秋間(あきま)、 足次(あしつぐ)、 四阿山(あずまやさん)、 穴原(あなばら)、 雨沼(あめぬま)、 新井町(あらいちょう)、 荒牧(あらまき)、 新巻(あらまき)、 新町(あらまち)、 有馬(ありま)、 安堀(あんぼり)、 安養寺(あんようじ)、
○板鼻宿 古くは若田郷藺田鼻、1604年中山道改修を機に北稜から移した。 旅籠数五十四軒は街道随一。 1845年上番と下番に分けられたのが災いし争いが絶えなかったとされる。 ※群馬県唯一の現存する一里塚が、「藤岡の一里塚」。 ※板鼻で悪事を尽くしていた伊勢三郎義盛が、源義経に会い改心したともいわれる。(松井田ともいわれる) ※達磨寺・糸操り灯籠人形、などある。
○中之条天王宮 戦国時代、吾妻を支配していた伊能新左エ門は越後六日町の天王祭の賑わいを見て、天王宮のご神体を盗み出した。 これに気づいた六日町人々に追われた新左エ門は必死に逃げ、伊能一族にバトンタッチすると三国峠を越え中之条古町の一族家まで一目散に逃げ帰った。 時は七月一日「釜蓋の日」であり、ご神体をセイロの中に隠した。 セイロの中は赤飯であった。 これ以来、中之条天王宮のご神体はセイロの中に安置されることとなった。 その後天皇宮は焼失し、ご神体は天王石の上に安置された。(鍋屋旅館前)
○高崎宿 中山道で最も繁華な宿場町であり、越後と富岡の分岐となる交通の要地であった。 中世和田氏時代は「和田宿」ともよばれ、以降城下町・市場町・宿場町として繁栄した。 ※本陣・脇本陣がないのは、諸大名が城下町での宿泊を敬遠したらしい。 ※高崎の古名は「赤坂の荘」。 ※高崎城主安藤重長に預けられ幽閉された徳川忠長が葬られたのが「大信寺」。
○伊香保名産 湯花、温泉染木綿真綿・温泉化石硯温石・髪洗土・籾の粉・挽物細工・氷豆腐・氷蕎麦・湯ざらし葛・湯ざらし艾・湯本焼物・滝ふたの粉・雑木ステッキ・彫盆・ちゑの板・ちゑの組木・櫛・箸・糸巻・下駄・枝折・八景かんざし・伊香保の香・塗物・黒楊枝・氷・鶉・鮎・鯉・鮒・鱒・鰻・茸・うどん・ぜんまい・蕗・蕨、など
○倉賀野宿 下町・中町・上町が、月の1/3ずつ交替で 伝馬を受け持ち宿を運営し、水陸交通の要であった。 川井河岸・新河岸・玉村河岸は三国街道方面、倉賀野河岸は上州・信州方面を扱った。 また、大名・旗本の蔵米を扱う米宿もあった。 ※徳川家康の命日4月17日に日光東照宮へ幣帛を奉納する勅使が通ったので「例幣使街道」。(1646年から1867まで毎年行われた)
○岩鼻監獄 1870年、岩鼻囚獄・徒刑場が設置された。 (女囚用含む)
○新町宿 1691年笛木新宿と落合新宿ができ、1724年両方を合わせて新町宿とした。 ただし、宿内は二つに分かれたままで、笛木と落合で半月ごとの持ち回りで分担した。
○上州の起源 六世紀、東国では武蔵国までが大和政権支配地、利根川以北は蝦夷の地といわれ・毛野氏が独自の政治・文化圏を構築していた。 そのため、大和政権からは「毛野国」とよばれていたが、仁徳朝により「上毛野国」と「下毛野国」に二分された。(都に近い方が上・遠い方が下) 大化改新後、地方国名を二文字にすべしというので、「上野」と「下野」になった。 中世に入り人や物の移動が盛んとなると、国名に州を付けるのが流行り(信州・甲州・紀州など)、「上野」も負けずに「上州」とよぶようになった。
さんぷく (高崎市嘉多町1)
どこまで解る[上州弁]!☆上州弁には女性語が無いのが特徴。 男女の区別が無い、男女差・性差別が無いとも言える。
○鹿沼土 軽石の起源は赤城山、正しくは「赤城鹿沼軽石層」。 四万五千年前、赤城山で噴火が起こり・マグマ中のガスが抜けて穴を作った軽石が、風に乗り山の東側に降り積もり、最大150cmの軽石層となった。
どこまで解る[上州弁]!☆上州弁は語調が強いのが特徴。
○倉賀野は舟運で栄えた町※古くは、倉加野・倉ヶ野・倉金・倉加袮・倉兼、などと表記されている。倉賀野河岸
どこまで解る[上州弁]!☆キリュー地区にはダガン人やダガー人が、トウモー地区にはダニィ人が、トネー地区にはムシ人が、棲息していたらしい。
○将軍塚古墳(元島名町) 四世紀始めに築かれたグンマ最古の古墳(前方後方墳)。 古墳の形が東海地方西武のものに似ていることと、発掘された土器が東海地方西部のものに似ていることから、三世紀頃に東海地方の人達が移住してきたのではないかともいわれる。 ※伊勢湾~東京湾~荒川~利根川と遡上したらしい。
どこまで解る[上州弁]!☆大切なお知らせ これらを覚えても何の役にも立ちません。
○大類城(高崎市) 大類氏は武蔵七党の系譜、1159年平治の乱で大類孫太郎行光がデビュー(足利勢)。 武田時代は和田城の支城、天正十八年廃城。
○児持耶麻大明神 天武天皇の御代、伊勢国度会郡から荒人神として現れ、上野国群馬郡白井の保に神となったのが児持耶麻大明神。 伊勢阿野津地頭阿野権守保明が伊勢大神宮の指示で児守の明神に祈願したところ、姫君が生まれ「子持ち御前」となづけた。 姫君九つにして奥方が亡くなり、伊賀国鈴鹿加若大夫和利の姫君を奥方にむかえた。
○伊香保大明神 伊香保姫に横恋慕をした国司大伴大将が略奪を企て、防戦しきれなくなった伊香保大夫は伊香保姫・石童御前(長女)・有御前(次女)らを連れ児持山へ逃げ入った。 このさい、伊香保姫の夫高光中将と伊香保太郎宗安が戦死した。
水上まんじゅう (丸須製菓@みなかみ町湯原1680-4、0278-72-3591、8:00~18:00、不定休) ○カステラ生地で美味しい。
創業百年 大正元年創業 福嶋屋製菓舗飲むゼリー マンゴー/オレンジ (株式会社福嶋屋@群馬県佐波郡玉村町上新田1637/イーサイト高崎、0270-65-3765、無休) 持ち帰った際に崩れた…、かき混ぜてストローで飲むので同じことではある…
○赤城大明神 履中天皇時代、高野辺大将家成は上野国勢多郡深栖郷に流され、一男三女をもうけたが、奥方が亡くなり信濃国更科大夫宗行の娘を後妻とした。 その後、家成は都に帰ることを許され単身赴任となった。
○四万川ダム
創業百年 大正元年創業 福嶋屋製菓舗贅沢苺ミルク (株式会社福嶋屋@群馬県佐波郡玉村町上新田1637)※かき氷、古くは関西はかいた氷にシロップかけ、東京はシロップの上に氷かき、だったらしい。
○照葉峡(みなかみ町藤原) 紅葉の美しい秘境の地、俳人水原秋桜子が命名した大小11の滝が連なる。
○足尾銅山 1550年足尾銅山発見(古川鉱業会社発表)・1610年足尾銅山発見(地元発表)、1627年日光東照宮支配下となる、1648年公儀御用山となる、1844年休山状態となる、1868年明治政府が没収、1878年古河直営となる(民営化)、1891年馬車鉄道、1896年大通洞(運搬坑道)完成・渡瀬川大洪水で鉱毒問題、1897年鉱毒予防工事命令、1905年日光精錬所稼働、1907年足尾暴動、1912年足尾鉄道開通、1918年古河鉱業株式会社設立、1973年閉山、1989年精錬所操業停止・古河機械金属株式会社に改称。
桐生城跡
○月世界のウサギ 釈迦は前世において森のウサギであった。 ある時、天帝のインダラがみすぼらしい老人の姿に源を変え、森のけものたちのところにやって来て・食物を求めた。 キツネやサルはなどはテキトーにその辺の物を拾ってきた。 ウサギは遅れて薪をいっぱい背負ってやって来て火を焚き始めると「わたしを食べてください」と言うと火中に身を投げた。 感激したインダラは、すぐに天へ連れ帰り月の世界に住まわせた。 この時、前足を焼いたので短くなった。
創業百年 大正元年創業 福嶋屋製菓舗おはぎ (株式会社福嶋屋@群馬県佐波郡玉村町上新田1637/イーサイト高崎、0270-65-3765、無休)○グンマでは、お盆にも「おはぎ」。 餅米をつぶしきらない状態を「はんごろし」といいます。 ですから、餅米を完全につぶしきった状態は「みなごろし」or「まるごろし」となります。
ハムカツ¥80、大きさ13cmほどある。
○十石峠 かつては、信州大日向へ馬子が荷(下駄など)を運び、帰りは米・酒・わら・草鞋などを持ち帰った。 小諸へ行く馬子衆は帰りに十石の米を上野村白井まで持ち帰ったので、「十石街道」・「十石峠」と呼ばれるようになった。 帰り荷は、白井の市場でトリヒキされた。 ※細い崖道で馬もろとも谷間におちてしまうのが「やきゅう沢」、供養の馬頭観音石碑も多い。
○日向見薬師堂(中之条町大字四万4371)
○火薬運搬箱・火薬箱 岩鼻火薬製造所(1880年~1945年)
○山王廃寺(前橋市総社町) 山王廃寺跡から、銘瓦・鴟尾・水注・銅鋺 などが発見された。 瓦には「放光寺」が記され上野国で最も古いものであり、鴟尾は 103cmにおよんだ。 ※塔の跡に日枝神社(山王)があったので山王廃寺とよばれるのであり、「山王寺」なる寺があったわけではない。 「放光寺(定額寺の一つ)」が正しい寺名で、681年以前に創建されたのではといわれている。
○新生活運動の推進 市民が自らの創意と良識により、物心両面にわたって日常生活をより民主的、合理的、文化的に高めることをめざして行う新生活運動を活発にすることによって、健康で住み良い地域社会の建設に寄与することを目的とします。 地域社会で生活をともにするお互いが、自分たちの生活課題を自ら発見し、自主的努力によって解決しようとする住民運動です。※1955年鳩山一郎内閣肝煎りで新生活運動協会発足。
○盆踊り唄・石投げ踊り(通称:石投げ) 石を拾って投げる仕草をするので「石投げ踊り」。 八木節流行とともに衰退した。 ※石投げ音頭ともいわれ、越後では「石投げ甚句」ともよばれ、系列唄は広く分布する。※八木節はトチギの民謡。
○積善館 元禄四年建立、日本最古の木造湯宿建築、積善館本館・積善館前新・積善館向新・積善館東屋がある。
○四万温泉 昭和初期の温泉宿は、田村(現たむら)と積善の二軒だけであったが、たくさんの座敷と浴室を持っていたので数十軒の宿があるように見えたといわれる。※与謝野晶子が泊まったのが「たむら」
○四万温泉の名称は「四萬の病を治す霊泉」との伝説に由来する。 メタホウ酸(ホウ素)濃度が高く・五十年前に降った雨が温泉として湧き出てくるとされる。 新湯川上流には四万鉱山があり「葉蝋石」を採掘していた。 四万温泉東の水晶山では水晶・トルマリンなどが産出された。 新世代第三紀中新世の地層が、ひん岩・石英閃緑岩質のマグマにより熱変成・熱水変質され、この地特有の鉱物が形成された。 その一部が溶けだし温泉となっている。
○群馬県、2015年出火率全国7位。
[ ブログ内画像検索 ]
もっと読む
最近のコメント