― 人生に遊び楽しむ、おいしい・たのしい・おもしろい ―
○鯰押さえ(大垣) 箱の紐を引くと、瓢箪を持った道外坊と鯰が回る。 瓢箪で鯰を押さえようとしている。 ※地震のお守り「ひょうたん鯰」が源。 大垣祭り山車のからくり人形「道化坊」を玩具化。※瓢箪鯰は、室町時代に措かれた「瓢鮎図」が源、猿知恵の意。
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黒地麻葉花鳥文蒔絵四種香盤
○平清盛怪異をみる図 一立斎広重、天保十四年~弘化四年(1843~1847年)頃。
○無筆重宝国尽案内 天保十四~弘化四年(1843~1847年)頃。
○道外上下見之図 孟斎芳虎、文久元年(1861年)頃。
○北国のおばけ 安政年間(1854~1860年)頃。
○からの子がよりかたまって人になる 一鵬斎芳藤、嘉永年間(1848~1854年)頃。
○人をばかにした人だ 一勇斎国芳、弘化四年~嘉永五年(1844~1852年)頃。※天保~弘の出版統制により、多色の絵(派手な絵)・役者似顔絵が禁じられたため、国芳はあくまで相撲や猫の絵として通した。 一方豊国は、そんななら描かないと決めたらしい。
○猫の当字・うなぎ 歌川国芳、天保中期(1836年)頃。
○奇異上下見之図・上下絵 天保時代(1830年~1844年)頃。
尻餅つく・歌川芳梅
○おもちや十二支 川崎巨泉(だるまや書店・1919年)
○河童像 (磯前神社、飯能市中藤上郷438 ) 猿にも見えるが、頭に皿があるので河童らしい。
☆飯能 朝鮮語で隣国の意、ハンナラ→ハンナム→ハンノウと転化した。
化々學校
○金魚づくし 歌川国芳、さらいとんび、天保十年(1839年)頃。
「化けない」化物の集まり
○江州坂本入江の浪士白狐にたぶらかさるるの図 歌川国芳、弘化四年(1847年)~嘉永五年(1852年)頃。 一人覗くは馬之助
○嫁入人形(香川) 嫁入りに先方の子供達に土産として持っていった張子人形・土人形、持っていく人形の数が多いほど裕福な家とされた。 ビンビン鯛・俵馬・チン・鯛エビス・天神・寝牛めチンタイ・鯉ダキ、などの縁起物。 ※香川には「奉公さん」・「獅子頭」があり、張子人形が有名。
横たわる美人と猫
○流行猫の曲手まり 歌川国芳、天保十年(1839年)頃。
○四月(道外十二月) 初物のあらそい、止めるはお釈迦様。
○流行三ツびゃうし 歌川国芳、弘化四年(1847年)~嘉永五年(1852年)頃。 狐・虎・鮭の三すくみ
○新案にたものあきれるづくし 歌川国芳、天保年間(1830~1844年)頃。 くろんぼう(黒ん坊)のすもふ(相撲)おミ(見)て、かがみたて(鏡立)があきれる。 かみなり(雷)をミ(見)てこま(独楽)があきれる。 やっこ(奴)のひるね(昼寝)おミ(見)て、そらまめがあきれる。 五もくずしをみて花もふ(う)せんがあきれる。 にらめくら(にらめっこの意)おミ(見)て、こまいぬがあきれる。 つのだらいをミてはんにゃ(般若)があきれる。 さざゐ(さざえ)がら(殻)みて、おに(鬼)があきれる。 手ながしま(長島)のけん(拳)をミて、からさお(殻竿)があきれる。
○独息子に嫁八人(八代目市川団十郎) 歌川国芳、弘化四年(1847年)~嘉永五年(1852年)頃。
○てっぽうの友 歌川国芳、天保十二年(1841年)頃。 河豚売りにフグを勧められた猪、「当たるとイヤダナ~」。 ※当たるは、フグにあたる・鉄砲の弾にあたる、の意。
飛鳥山では、花見時の「かわらけ投げ」が有名であった。画像番号: C0068696 作者: 鈴木春信 時代: 江戸時代
○道外獣の雨やどり 歌川国芳、天保後期(1830~1844年)頃。 馬=やじうま、熊=あらくま、牛=車引き、羊=かみくず、狐=白玉うり、鹿=鹿の子、兎=びょうとう、鼡猟=竹じゅばん、猪=おはぎ、虎=竹うり、猫=ねずみ取り、猿=桃うり、いたち=ところてん、狼=ぼうず、犬=たでうり、狸=茶がまうり。
○其まま地口猫飼好五十三ひき 歌川国芳、嘉永元年(1848年)頃。
扇(東洋文庫)
○花見の提重詰
花見の堤重詰小割籠
○玉だれ 山葵を用いた求肥菓子、榮太樓特作として夏の人気菓子だった。
○万年筆(丸善書店) 明治二年頃「カウススタイログラフィックペン(針萬年筆)」輸入、明治三十年頃ペン先のついた「Fountain Pen(萬年筆)」輸入。
○辻占(夕占・道占) 神社仏閣の神官僧侶たちが神託により吉凶を記した刷り物を神占といったのが始まり。 黄楊の櫛を持って辻に立ち・神仏を念じながら・往来する人々の言葉を聞き、事の吉凶を占った。 この結果を記した紙を売り歩いたのが「辻占売り」。 その後、巻き煎餅やかりんとうにはさんで売る者が現れた。
○みつ豆・あんみつ 江戸時代末より屋台で売られていたものを、1902年浅草舟和が改良して売出した。 その後、銀座若松がみつ豆に餡をのせた。
上方震下り瓢磐鯰の化物他 画像番号: C0090882 列品番号: QB-11034 時代: 江戸時代
○耳の垢とり 江戸神田紺屋町・京都・松浦潟平戸、などにみられたらしいが、正徳時代には消滅したといわれる。
○歯磨 明治二十八年本舗東京資生堂(現資生堂)が福原衛生歯磨石鹸発売。 明治二十九年「ライオン粉歯磨」発売。 その後、花王散歯磨・ライオン歯磨・菊世界はみがき・ベビー歯磨・アーム歯磨・コルゲート・スモカ歯磨・鹿印練歯磨・クラブ歯磨・象印歯磨、などあった。※ライオン歯磨きの社名は、ライオンの牙が白くて強いので「ライオン歯磨き(獅子印ライオン歯磨)」とした。(当時は象印歯磨・鹿印歯磨など獣名が多かったので、より強い名にした)
○日本コナミルク株式会社(富浦村) 1916年に東洋煉乳所を譲り受けて設立された。 当時としてのコナミルク製造は、日本としても初期であり製法も幼稚だつたので製品は芳しからず営業は振るわなかった。 大正九年の財界パニツクの余波を受け房総煉乳株式会社に移譲して工場を閉鎖、富浦駅前鉄筋コンクリートの大煙突のみはその後も永くその面影を残していた。 粉乳以外に練乳も製造していたが、関東大震災の被害を受けて解散した。
○猫の絵かき 鼠除けの絵を描き売り歩いた。
○浅田飴 昔は病気見舞い(特に産後)には「水飴」が贈られた。 その一つが「良薬にして口に甘し」といわれた明治二十二年「御薬さらし水飴」の発売であり、後の「浅田飴」である。 江戸時代の薬屋の看板は、大きさ・豪華さを競い、費用を惜しまなかったといわれる。
○竹田近江機捩戯場(からくりしばゐ) 寛文二年(1662年)大阪道頓堀で竹田出雲がからくり芝居を興業。 当時日本に来ていたオランダのカピタンたちが、このからくり芝居を見物して感嘆したと描かれている。
○片陰(夏の夕方の日陰) 佃島住吉神社・佃祭にて、麦湯・水売り・街芸人。
○子のできる保證薬(新宮薬館) 妊娠にならざる時ハ百倍にして返金す。
○流行癈物くらべ
○お千代舟(阿千代舟) 船饅頭を見立てた街芸、お千代は船饅頭一番の美女(チョット小肥り)だったらしい。
○馬鹿の番附
○貝杯 鶉貝の「幾瀬」・夜光貝の「鳴戸」・オランダ渡りの「春風」・鮑貝の「君が為」「梅枝」・その他に「吾肖子」「瀧音」など。
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